2021年12月31日金曜日

大つごもり

昨日、今日は大掃除。もっと前からやっていれば良いものを。

暮れも押し詰まって全部やるから大仕事。分かっているけどやめられない。これが泥縄の習性なり。

自分はそれで良いが、母は気がせくのか体調があまり良くない。休んでもらいたいとYOUTUBEでクラシックのBGMをかけて少し休んで下さいと頼む。少し聞くと、このショパンは間延びしているとか、もっと歌って欲しいのに自動ピアノみたいと言う。それは3時間、4時間かけ放しの作業用BGMだからしょうがない。と言っても母は納得せず。

誰のが聴きたい?と聞くと間髪をおかず「ツィメルマン」。彼のショパン ノクターン、バラード、スケルッツォそしてシューマンの即興曲のYOUTUBEを流した途端、それまで立って働こうとしていたのに、椅子に座って聞き入って。その間、玄関と台所の掃除をしようと思っていた私も結局聞き惚れてしまった。

歌うようなアーティキュレーション、惹き込まれずにはいられない音色。天性としか思えないリズム。

一年の最後に思いもかけず、ゆっくりとした時間となった。

大つごもり 曇りがちなる 夕べかな 村山故郷

皆様にとっても良い年の瀬、年始となりますよう。

2021年12月30日木曜日

ACC取得

ACCとはアスリートキャリアコーディネーターのこと。

キャリアカウンシルからの養成講座の情報を得て応募してみた。

動機としては、キャリアコンサルタントの資格をとったが、副業許可のない会社に勤めているのでまだ実稼働していないので、せめて勉強だけでも進めようという軽い思いつきからだった。

会社には競技採用の人も多くいるし、同期でもその経歴を誇りとしながらも悩みもあるということを聞いていたので、遠い世界の話ではない。実際にケーススタディを予習して臨み、受講生達と議論してみるうちに、これはアスリートだけの問題ではなく、たとえばピアニストや音楽家の世界も近い課題を抱えているのではと思うようになった。

アスリートキャリアの課題はいろいろ、種目によっても、立場によっても異なるだろうが、概括すれば若い頃から、たとえば野球なら野球、この世界で良い選手になりたい、長じればプロになりたいと、アスリート一直線にその夢を一途に追っていることが多い。プロになろうとする位の実力ともなれば、それ以外よそ見をしている間も余裕もない。換言すれば別の将来設計の選択肢を思い描くこともなく邁進してきている。だが、選手生命は短く、一般の人が学校を終えて会社に就職して若手として修業を積んでいる頃に実力を発揮していたり、或いはそろそろ第二の人生を考えなければならなくなる。そう、第二の人生が20代や30代できてしまうのだ。

欧米などでは、大学で第二の人生に向けてのキャリア教育を充実させている団体も多いらしい。コーチや関係者として競技界に身を置くにせよ、一般企業に就職、或いは起業するにせよ、広い目で選択肢をみて、そして次のキャリアを考える意識と時間が必要だ。

自分にとっては、かつてピアニストになりたいと思いながら将来のキャリアとして不安に思い二度(小学生と大学生)断念したことを思い出す。ピアニストを目指した人のキャリアがピアニストや音楽の教師だけでなく、他の音楽関係の仕事が多岐に広がっていたり、ピアニストも専業だけではなく、もっといえば音楽大学だけでなく、「生活していける」キャリアが開けていると、もっと音楽に携われる人が増えるのではないか。そしてそういう教育や考える機会が若い時からあったら。

アスリートをサポートする機運や組織が多く生まれてきている中、同じような課題を抱える業界はほかにもあるだろう、ACCでの取り組みは業界を限らず対象を広げられる取り組みなのではないか。そんなことを考えさせられた研修の機会だった。


2021年12月29日水曜日

デュオポッキーズ忘年会

仕事納めの昨日。会社の忘年会はすっぽかし、友人との例年の忘年会へ。

毎月フランス音楽講座でお会いしているものの、お互い忙しく、なかなかゆっくり話をする機会がないので、結局、スポコン漫画のような汗と涙の連弾練習の後か、忘年会ぐらい。

住居も同じ区なので中間地点にある美味しいイタリアンへ行くのもここ暫くの習わし。スパークリングワインで乾杯し、新鮮な真鯛のカルパッチョ。昨今では珍しくしっかりした酸味と甘さが際立つトマトとがモッツアレラチーズと綯交ぜとなるカプレーゼ。彼女のチョイスの濃厚な雲丹のクリームパスタには熟れた果実のようなブルガリアの赤ワイン。

美食に、多種多様な話題とくれば、あっという間に時間は過ぎる。彼女の博士課程の研究の話から、来年弾きたいソロ曲、一緒に弾く連弾曲、家族の話かと思えば、私の仕事、彼女が参加しているプロジェクトや、完成間近の翻訳の話などなど。汲めども尽きぬ話の種。


いつ話をしても、想像もしていなかったことにチャレンジされている彼女。一見すると何でも簡単にこなしてしまうスーパーレディに見えるが、実は人知れず種をまき続けているからこそ、大輪の花を咲かせることができる。いつも私はその姿に一方的に刺激をいただくのみだ。

2021年12月26日日曜日

花の時間

中学・高校生時代はフランス文学をよく読んだ。

中学生の想像力ではよくわからないながら、それでも実年齢よりも大人になりたくて、ただ読んだ。マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」、ギュスターヴ・フローベールの「ボヴァリー夫人」、ロマン・ロラン「魅せられたる魂」。

高校になってサン=テグジュペリの「夜間飛行」「人間の土地」の透徹した個人主義の感触に惹かれ、何度も繰り返し読んだ。夢中になったのは、堀口大学の名訳も相俟っていたかもしれない。「愛するとはみつめあうことではなく一緒に同じ方向を見ること」。これもよく引用される有名な言葉だ。あの頃最先端の職業であったパイロットで、44歳で二次大戦中に地中海上空で消息を絶ったという人生も、ある意味謎めいていて好奇心を掻き立てられた。

という印象だったが、今般出版された青柳いづみこ氏の「花を聴く 花を読む」には、サン=テグジュペリが実は彼の作品「星の王子様」にでてくる我儘な「薔薇」に似たところがあるという記述があり驚いた。彼の「薔薇」に擬せられた妻コンスエンロが書いた「バラの回想」を読むとそういう一面が見えてきたそうだ。

冒頭の「薔薇」の章から一気に惹き込まれ、勿体ないことにその日のうちに読破してしまった。ちなみに、「薔薇」をタイトルに関する曲は結構少ないそう。好きな作曲家であるヴィラ=ロボスが「カーネーションはバラと喧嘩した」という面白い曲があるそうなので早速きいてみよう。一気に読み終わったが、これから本に記された「花」の音楽をネットで探して聴きながら読むつもり。知らない知識、聴いたことのない曲が一杯詰まった、ひと足早い「音楽の福袋」だ。(写真はAMAZONより借用)

同時に刊行されたCDが、こちら、「花のアルバム」。本にでてくる曲も入っている。フランス音楽の大家なので、クープランの「ケシ」、タイユフェールの「フランスの花々」が入っているのは想像していた路線だが、八村義夫の「彼岸花の幻想」のように日本人作曲家の手による4曲も全て初めて聴く曲で興味深い。

多彩なタッチで、花の質感や、時には香りのような空気感まで表現できるピアニストだからこその選曲だ。


写真はHMVより借用。画は本、CD共に渡邊未帆氏。

2021年12月25日土曜日

この時期の思い出

背筋が伸びるような冷たい空気。落ち葉を燃やす臭い。ヘンデルの「ハレルヤ」の調べ。

中学・高校6年間一貫教育の女子高で、12月になると「ハレルヤ」を全校生徒で練習しクリスマスの礼拝で歌った。記憶力の良い時期に6年も歌うので、今でもピアノ伴奏が始まれば、多分多くの元生徒達は歌えるのではないだろうか。

大学の友人からもらった絵本。"First Christmas"という360度見開きになる精緻な美しい切り絵で、30年以上経つが毎年ピアノの上に飾ってみる。何度も引越しをし、なくなったものも多いのに、何故かこれは今でもそばに。


Jan Pie'nkowski作 きたむらまさお訳
朝の光の中でみても、夜ろうそくの灯ゆらめく中で眺めても、陰影が美しい。これだけの長い月日が経っても鮮烈な白い紙の色が、キリスト降誕のよろこびと清らかさをあますところなく表現している。

2021年12月18日土曜日

フランス音楽講座 マスネ 「静かな水」「流れる水」

12月のフランス音楽講座。

マスネの2つの即興曲をもっていった。

"Eau  dormante" "Eau courante"。PTNAでタイトルを検索すると「濁った水」「流れる水」とあったので、このタイトルでノミネートしてもっていった。

だが、"Eau  dormante"は、ネット翻訳してみると、仏和だと「濁った」とでるのだが、英和だと"still water"。「流れる水」との対比からいっても「流れない水」「静かな水」の方がしっくりくる。

譜面は簡単だ。舟唄の伴奏形のような左手に、右手のメロディは一小節にテヌートの二音だけ。透明感のある不思議な音の連なりだ。

ペダルが難しかった。一小節ずっとペダルを踏んでいると左手の二度でかなり濁ってえぐい感じになる。「濁った水」ならそれでもいいが、哀切感のあるメロディとはあわない。だからといって二度を弾いたあとでペダルを踏みかえるとと綺麗になりすぎてタイトルとニュアンスがあわない。結局試行錯誤して、バスで深く踏み、二度のあとのB(左手の頂点部分)で半分だけペダルを浮かして音を減らす。自分なりに工夫したつもりだが、実現はあまりしていなかったようで先生にはその点を指摘された。やろうとしたことは当たっていたが、効果がでていなければ失敗。この微妙なペダルの調整、苦手だ。

「流れる水」の方はテンポが速い。漸く聴けるようなテンポにできたのが前日だったので、弾くことで精いっぱい。左手のメロディを歌いながら、右手は軽いタッチで素早く流れるように弾く。弾き方やダイナミクスは特に直されることはなかったが、こちらもペダルが課題。「流れる水」なのでこちらは本当に濁ってはいけない。左手、右手、足でのペダルと超忙しく、耳で聴いてそれを瞬時に調整するまでいかない。まあ、練習あるのみなのだろう。

対照的な二曲、水シリーズのコンサートの曲目に使えそう。あまりポピュラーではない曲を聴いて、新しい曲に出会えた喜びを感じるのも音楽の一つの楽しみだ。ここ暫くはそういう曲を探してみようと思う。

2021年12月11日土曜日

くれなゑの深染の

もみぢ遠くよりみつつ来りていま近づきぬ

斎藤茂吉

早朝散歩も寒くて行きたくない朝もあるが、こんな華やかな一瞬に出会えるのが醍醐味で続いている。

2021年12月5日日曜日

フランス音楽講座 マスネ 黒い蝶 白い蝶

先月のフランス音楽講座。

受講生が多く、それぞれコンサートの前の準備等で大曲も多く活況。そんな中、私はマスネの小品2曲をもっていった。

フランス音楽講座には、先生がドビュッシーを特に専門にされていらっしゃるのだが、自分は殆ど弾いたことがなく臆してもっていかず、基礎から勉強しようとフレンチ・バロックをもっていっていた時期がある。それから、暗黙のうちに「フランス音楽」に準じてみていただく人が多いショパン、子供の頃に弾いて好きだったフォーレ、そして漸くドビュッシーを練習してもっていくようになった。自分では無理かと思っていたラヴェルの「水の戯れ」、自分にとっては新しい境地でプーランクも何曲か弾いた。

今年は、今まで弾いたことがないフランスの作曲家を選ぼうと思い、フランス人の作曲家をいくつか挙げてピアノ曲を調べ、フィーリングがあったマスネに白羽の矢をたてた。

マスネと聞くとパブロフの犬のように「タイスの瞑想曲」と結びつく。だが恥ずかしながらほかにはあまり知らない。マスネは1842-1912年の生涯で、作曲をグノーに師事し、主にオペラや歌曲を作曲した。裕福だったが6歳で父の事業が破産、それでも神童惜しまれなんと11歳でパリ音楽院に入学。カフェでピアノを、劇場でティンパニを演奏してアルバイトとし学校に通ったという。

今回練習した「黒い蝶」「白い蝶」は短いながらも、それぞれの曲のキャラクターが明確で、優れた作家の短編のような凝縮感が楽しめる。

「黒い蝶」譜面は難しくないのだが、フランス独特のノアールな感じを、でも重くならないで出すのはとても難しい。3拍子だが、正確に3つ拍子を刻むと「子供のためのマスネ」となってしまう。agitato(激しく、急き込んで、苛立って)という指示と、ワルツでつかわれれば優美な印象の3拍子でどう表現するのか。弾くたびに異なる弾き方を試したくなるができる面白い曲だ。  (写真は楽譜、IMPLSEよりダウンロード)

「白い蝶」の方は対照的に白い蝶がふわふわと舞っているような、空気感が出せるかがキーだ。柔らかさ、時に方向感覚が分からなくなるような非現実感、羽根が漂うような無重力に近い軽さ。こちらは8分の9拍子と、大きく分類すればこちらも3拍子。8分音符、16分音符と音価が短い音が連なり、飛行の軌跡が見えるようだ。「白い蝶」も結構「空気感」を出すのが難しく、拍から少し外して高みへの浮遊、上からの落下などを表現してみた。パターンはある程度決まっていて同じに弾くと「繰り返し」感がでてしまうので、タッチを変えて硬・柔・重・軽・楽・悲といった色を思い浮かべて弾いてみた。

短い二曲だが、弾き込まないとなかなか「フランス曲」ぽくならず、大人のテイストにするには結構手強い曲である。

2021年12月4日土曜日

秋には光になって 冬はダイヤのように 千の風になって

日常は徐々にコロナ前に戻っているのだろうか。

商談も季節性を取り戻し、クリスマス前に忙しい。アメリカ・メキシコと朝7時に。ドイツとは夜8時前に。今週のWEB会議商談はそれぞれ不規則な時間帯だった。

日本の客とは、そろそろと様子を見ながら忘年会を遠慮がちに提案。同僚や仕事関係者の異動歓送会も「有志」で行われるようになってきた。

先月はイギリスのビジネスパートナーが来日し2年ぶりに対面。仕事がご縁で、仕事絡みから解放された今でも一年に一度お会いする知人とも無事懇親会を実現。近況を報告しあった。

しかし日常がコロナ前に戻ることはないだろう。罹患した人も、結果的にはしなかった人も、経験したことがなくなることはない。せめてこの経験から、次の災害の予測精度を高くしたり、政治や個人レベルでの対策実行を迅速化したり、より円滑に情報共有したり、次に活かせる知恵を身につけたいもの。


私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

「千の風になって」 新井満 訳詞・作曲

歌詞も、メロディーも、とても好きな曲だ。
時々父の写真に向かって口ずさむ。
父は秋川雅史さんの歌唱が好きでよく聴いていた。

今日、訳詞・作曲された新井満さんの訃報をお聞きした。ご冥福をお祈りします。

2021年11月28日日曜日

冬の夕べの音楽会

昨日は久しぶりに音楽会に行った。

デュオ・ポッキーズの友人が演奏するので楽しみに伺った。プログラムを拝見すると、ピアノだけではなく、ヴァイオリン、ヴィオラ、ホルンなど楽器も多彩で、曲目も普段聴けない曲もあって好奇心刺激されるもの。もともとは彼女が発起人で、会社の仲間を誘って始めたようで、今や仲間も増えて盛況のようだ。会社はもともと仕事をする場ではあるが、その中に敢えて別の横糸を通して縁が広がるというのはとても素晴らしいことだ。

冬の夕べの音楽会に、少し早くに家をでて、少し遠回りになるがお気に入りの銀杏の木がある道を通った。陽に輝くの黄金色の葉を堪能。


東の邦よりわが庭に移されし

この樹の葉こそは

秘めたる意味を味わわしめて

物識るひとを喜ばす


こは一つの生きたるもの

みずからのうちに分かれしか

二つのものの選び合いて

一つのものと見ゆるにや


西東詩集/ゲーテ/小牧健夫訳

2021年11月27日土曜日

調律

今年もまた調律してもらった。

毎年同じ方にお願いしている。もう20年近くか。昨年話していた時はコロナ禍で仕事があがったりだと言っていたが、今年は結構忙しいそうで日曜も対応しているとのこと。

コロナで変わったのは、今まで平日にやっていたお客さんが、家族がテレワークで家で仕事をしているので週末にやって欲しいという人が増えて週末が忙しくなったと。また、少子化でピアノ人口が減ってきたのを危惧していたが、昨年から今年にかけて結構ピアノを習い始めた人、再開した人からの仕事が入ってきたとか。

目いっぱい調律してもらって、お疲れでしょうからとケーキとお茶を出して少し話をした。一年に一度七夕のように会って、仕事をしてもらって、ピアノに関して少し話をしてまた一年経つまでさようなら。不思議なご縁だ。また来年もよろしくお願いします。


2021年11月23日火曜日

小早川秋聲 展覧会

東京駅のステーションギャラリーで開催されていたので見に行ってきた。

私は恥ずかしながら名前も知らなかった画家なのだが、母が「この人の赤い色は印象的なのよ」と勧めてくれた。

大正から昭和にかけて生きた人で、京都で日本画を学び、中国・欧州と旅して描き、北米に招聘されてまわり、従軍画家としても表現を続けた。

さっと一筆書きのような絵にも対象の特徴をつかん確かな技量にうならされるし、このポスターにつかわれた「愷陣」(写真はポスターから拝借)のように、何かを暗示するような「表現したい」情熱やオーラが強く惹きつけられる絵もあった。


この絵は、戦争から戻ってきた馬は埃まみれのままでいる、村人がそんな馬を花で飾って労うという漢詩に着想を得た絵と解説されていた。華やかな花々と、毛並みがずたずたになった足、不自然に身体を曲げてうなだれた体形、落涙のように見える白い花びら。馬を描きながら何を訴えたかったのだろうと心に残る一枚だ。


2021年11月13日土曜日

バッハ 平均律 2番

久しぶりのピアノレッスン。

ベートーヴェンで折角少しだけ指を鍛えたので、そのままドイツの古典を弾こうとこの曲を選んだ。中学生の頃弾いたきりで、それ以降練習していない。

その頃練習した楽譜でレッスンにもっていった。春秋社の井口基成先生の編集。だいぶ編集者の手が入っている楽譜だったらしい。先生には原典版を薦められ、原点の楽譜を見ると、かなりシンプル(編者が記入したスタカートやアクセントなどがない)。子供には弾き難かっただろうから井口先生版はその年齢にはあっていたのだろう。今は何も追記されていない原典版を見て、音の形(流れ)を見ながら、どう弾いて欲しいとバッハは思っていたのかなと想像するのが楽しい。そのうち、いろいろ解釈に迷って悩み出すのかもしれないが。

2021年11月7日日曜日

祥月

快晴の週末。

墓参りに行ってきた。

この曲も歌ってきた。行くたびに違う曲を歌う。

去年は讃美歌。今年は母が好きでよく歌っていたので、父も頷きながら聴いていた曲。

ビゼー作曲、海野洋司作詞。小さな木の実。

幸せな秋はあふれてる

風とよく晴れた空と

あったかいパパの思い出と

坊や強く生きるんだ

広いこの世界おまえのもの

今年また秋がくると

木の実はささやく パパの言葉。


写真は木の実ではなく、木の葉。海岸には今、色とりどりの落ち葉が寄せられている。

2021年10月31日日曜日

ショパンと映画

ショパン・コンクールに触発されて、思い出した映画がある。

「戦場のピアニスト」

第75回アカデミー賞で監督賞、脚本賞、主演男優賞の3部門を受賞た作品。ショパンの夜想曲20番が印象的に流れる。実在のユダヤ人ピアニスト(シュピルマン)の実話であり、それだけに現実味があり心に重く残る。ドイツ軍将校に命じられて、この曲を弾く。それまで逃げて生き延びることにのみ心を向けていたピアニストが、弾き始めた途端にこの曲を奏でたいという衝動に突き動かされる場面は忘れることができない。そしてこの夜想曲20番以外に、この場面に合う曲は考えられない。耳について離れない曲だ。

映画の主人公のシュピルマンの方は、その演奏や人生について、この映画公開後は脚光を浴びることが多くなった。

Szpilman この人の弾く夜想曲20番(YOUTUBE)。

戦場のピアニストを救った将校 一方、公開後すぐには脚光を浴びることがなかった、このドイツ人将校の方も本になったようだ。読んでみたい。


「グリーン・ブック」
こちらは、第91回アカデミー賞で作品賞・助演男優賞・脚本賞の3部門を受賞。黒人のエリートピアニストと白人のナイトクラブの運転手が共に人種偏見の強いアメリカ南部を演奏旅行するという設定。このピアニス(ドン・シャーリー)とも実在の人物で2歳からピアノを始め、ロシアのレニングラード音楽院で学び、18歳ではボストン・ポップス・オーケストラでデビュー。この他、音楽や典礼芸術、心理学の博士号を取得、8ヵ国に堪能だったともいわれ、作品中では「ドク(ター)」と呼ばれた。
作中、ショパンの曲は、演奏旅行中の場末のバーで弾いた「木枯らし」のエチュード。黒人であるが故に、個人の技量で判断されない悔しさを直接間接に受けた彼が弾く。ショパンのエチュードの中でもとびきり難しいこの曲を難なく弾く孤独な姿。だが、弾く喜び、聴衆の興奮、といったことの感じられない、木枯らしのような心象風景と結びついた曲想だ。

「天使にショパンの歌声を」
最後は、こちらもエチュード、別名「別れの曲」を使ったこの作品。
ケベック映画賞受賞6部門の作品。優れた音楽教師で寄宿舎のシスターと、寄宿舎の女子生徒たちの物語。経営難で音楽学校が閉鎖されそうになり、シスターと生徒が立ち上がる。反抗心旺盛の女子生徒が、最後にコンクールで弾く曲がこの曲。

結局、現実は厳しく、生徒たちの頑張りむなしく音楽学校は閉鎖されてしまう。この女子生徒はコンクールに挑戦することで新たな舞台に旅立つ。別れの曲の、少し懐古的で美しいメロディが、この映画の締めくくりに彩りを添える。(写真はKADOKAWAのHPより借用)


2021年10月30日土曜日

第18回ショパン・コンクール

2位反田氏、4位小林氏と日本人が二人入賞。日本国中が速報に沸いた。

経済紙の代名詞の日経ですら、お!と思うタイトル。現地でコンクールを取材していた青柳いづみこ氏に電話インタビューし、彼女の表現を見出しに使った。

演歌のようなショパン

急なインタビューに青柳氏からそのままでてきた言葉のようだが、キャッチーなタイトルでマスコミとしては成功だったのでは。ショパン・コンクールといういかにもクラシックの世界と、日本人には親しみやすい演歌というジャンルのミスマッチが多くの人の目を奪った。きっと琴線に触れた演奏だったのだろうとの期待感で、多くの人がYOUTUBEに向かったのではないだろうか。

こんなに楽しく弾いていいんだ!

実際、青柳いづみこ氏のHPを拝見すると、右側に表示されるTwitterで、今回のコンクールの経緯が、多角的に速報されていて、臨場感いっぱい。あとでゆっくりまた戻って読ませていただくつもりだが、そのレポートの中でも、心わくわくしたのはこの記事。

>>元気が出たショパン・コンクール

>>ピアノって、こんなに楽しく弾いていいんだ!
>>審査員までもが耳を洗われた(との談話が)マルティン・ガルシア・ガルシア。


いつかはゆっくり本選のはじめからYOUTUBEで自分の耳を便りにコンテスタントの音楽をききたいものだが、今はまだなかなか時間がとれない。今回は、青柳いづみこ氏の記事に沿ってきいてみようと思う。

ところで、ショパン・コンクールの裏事情。以前テレビで、本選に残る方々に選んでもらうピアノメーカーの熾烈な戦いをレポートする番組を観て、メーカーの営業としてはとても興味をもった。一度アマチュアコンクールで「次に弾くピアノを選んでもいいですよ」と言われたことがあったのだが、限られた時間 種々のピアノを弾いて試すか、これというピアノを絞って最終判断するか迷ったものだ。人によっては至福の表情を浮かべいろいろなピアノを試弾する人も、はじめから決めたピアノで自分の曲の感触を確かめる人もいて様々だった。私は余裕なく、後者。でも今考えるといろいろなピアノを試弾しておけばよかったかも。今回の優勝者はイタリアのFazioliを使ったそうだ。netでみると、メーカー指定を途中で変えてもいいとか悪いとか、ルールに混乱があったようだ。これは、コンテスタントにとっては大きな条件変更で、ええ!!!という人もいただろう。それだけピアニストにとっては「自分」の弾き方、技量も大切だが、「ハード」とも言えるピアノや響きを司るホールも大切。ホールは変えられないから、「自分」以外はこの「ハード」の選択も深く考えるところがあったろう。何故今年はFazioliだったのか。これを探るのも今回の楽しみの一つ。






2021年10月17日日曜日

最近読んだ本

緊急事態宣言が解かれ、家の近くの図書スペースも久しぶりに解禁となった。ここは、住人が読まなくなった本を置いていき、また勝手に借りていくことができる、フリーな場所。この気儘な感じが気に入っている。

ふらっと寄ってみて、目を惹いた3冊を借りてきた。自分でも、ああ、こういう本に惹かれたんだとそれ自体が発見で面白い。

「逆境からの仕事学」姜尚中 NHK出版新書

冒頭から「仕事人生そのものである」と始まる。この人にとって、「仕事とは社会への入場チケット」だと定義する。それは、「在日である私は、両親や在日のコミュニティーによって庇護されて生きるのではなく、一般人として社会の中で生きていきたいと思っていました。」「社会の中で自分の居場所がほしいからでした。」

自分に言い聞かせるように諄々と記す言葉に共感した。私にとっても、生きる為のお金を稼ぐ手段であると同時に、「仕事の中にある社会的な使命」を果たすことで、この社会に参加していると実感したいのだ、と思い至った。なんとはなしに思っているものの、入社した時、転職を考えた時ぐらいしか再認識しないことを、あらためて考えさせられた。他にも、この不確実な世の中を生き抜いていくためには「人文知」が必要とし、新しい知識の得られる「生もの」と、古くから醸成され生き続けている「干物」を読書していくことの大切さも記されていて、もっと本を読みたくなった。

「鋼のメンタル」百田尚樹 新潮新書

映画となった「海賊と呼ばれた男」ぐらいしか読んだことがなかったが、タイトルがキャッチーで手にとった。内容的には人生の先輩達が今までにも記してきたものなのだろうが、表現が興味をそそるのだろう。「金属疲労をおこすな」では「きつい仕事にも泣き言や不平を一言も漏らさず、もくもくと仕事を続ける人が。そういう人に限ってある日突然、倒れたり、不調を訴えたり、過労死してしまったりすることが多いのです。逆に、すぐに泣きごとや不平を口にする人は、以外に倒れたりしません。」「メンタルを免振構造にせよ」では、「人生の暴風雨に対して、男らしく弱音を吐かずに立ち向かうという姿勢はかっこいいものです。でも、皆さん、そのせいで心の深いところで金属疲労を起こしたり・・・ないようにしてください。そのためにはメンタルを免振構造にすることです。ショックなことがあれば、がんと跳ね返すよりも、一旦それを受けてへこみましょう。」なんでもないと自分をだましていると、ショックが見えないところで尾をひいてしまう、というもの。カラッとした言い方が、そうだな、悩むよりそうしてみるかと思わせるあたり、放送作家出身の「相手を捉まえる」技が光っている。

「松浦弥太郎の仕事術」松浦弥太郎 朝日文庫

「自分の行いが、人の役に立つ。自分の中にある何かが、人に幸せを与える。簡単に言えば、仕事の目的とはこういうものだと思います。仕事とは個人の楽しみではなく、自部が社会とかかわっていく営みだと考えています。」「音楽でも芸術でも料理でも同じこと。・・・社会の中で人の役に立たなければ、いくら一生懸命にしたところで、ひおりよがりな自己満足に過ぎません。」「その人の後ろの『五十人』を意識する・・・どんな人の背後にも、最低五十人の人間関係があるという話です。働くうえで、常にこの意識をもつことは大切です。この意識があれば、人を立て、相手の儲けを考える重要性が、より深く理解できます。」いろいろなところで講演やエッセイが掲載され「暮らしの手帳編集長」として知っていたが、フリーランスとしての仕事が長く、編集長という組織の中で仕事をすると思ってもいなかったそうだ。基本一人で自立して仕事をすることと、大勢の人をまとめていく仕事、大きな変化の中で、一貫して大切にしてきたことを記したエッセイ。姜さんの本と通ずる価値観で、この二冊の本には、社会人としてもっと意味を考えて丁寧な仕事をしなければいけないと考えさせられた。

銀杏の実。朝の散歩で顔をあげて空を仰いで発見。

2021年10月16日土曜日

秋の風はオリーブのように苦いではないか

フランシス・ジャムというバスク地方生れの詩人が詠んだそうだ。(詩人石田瑞穂さんのHPより)

オリーブは苦いのだろうか。私達が一番よく使うオリーブ製品は多分オリーブオイル。そこから苦いというイメージはない。

今年も知人から、庭でできたのでといってオリーブの実を分けていただいた。


昨年は言われた通りにすぐ処理したが、今回は生の実を齧ってみた。ジャムの表す通り、本当に苦かった・・・。

この苦さは渋みからくるそう。その渋みは実を虫などから護るためのポリフェノール。

オリーブの薬効とされる、疾病や老化を防ぐ抗酸化作用を持ったポリフェノールではあるが、渋すぎて食べられないのでは勿体ない。さて、これから知人からあわせていただいた苛性ソーダを使って、渋抜きをしよう。

2021年10月10日日曜日

おりおりそそぐ秋の雨

と曲が始まるのが、「四季の雨」文部省唱歌

私自身知らず、今朝は晴れて強い日差しが重い雲間からレンブラントライトを注いでいたのに、ちょっと目を離したすきに、もう驟雨。その雨を見ながら母が口ずさんだのがこの曲。

春、夏、と歌ってそして秋。

おりおりそそぐ秋の雨、木の葉木の実を野に山に、色様々に染めなして、おりおりそそぐ秋の雨。


期末の忙しさでダウンしている間に、緊急事態宣言解除、岸田内閣発足、関東地方でマグニチュード5強の地震、といろいろなことが起きていた。

そんな慌ただしい中、先週は久しぶりに先輩とゆっくり話がでいる機会に恵まれた。かれこれ20年近く、営業経験ゼロの時から、彼の背中を眺め、半歩でも追いつきたいと思ってきた人だ。マーケティングや営業戦略を立案することも、そしてこれが大事なのだがそれを実行もできる方で、よく話を聞かせていただいた。最近は難関資格にもチャレンジされている由。最近金属疲労ならぬ、勤続疲労で士気が落ちていたが、先輩と話しをするだけで刺激をいただきまた頑張ろうという気になるもの。

2021年9月26日日曜日

Linguaskill Business

会社の方針で受験する英語の試験は、今まではTOEICのL+Rだったが、今年からLinguaskill BusinessのSpeakingになるという。連絡が回っていたが業務の方でそれどころではなく、念頭に全くなかったが、数日前に受けることになった。

cambridge-exams

ケンブリッジ方式ということで、日本では英検が共催しているようだが、前日に急いでHPを見て受験要領を読み、ビデオを見てみた。TOEIC L+Rとは全く異なり(みるskillが違うのだから当たり前だが)、事前に勉強しておけばよかったと反省。

5つのpartにわかれ、1.簡単な質疑 2.音読  3.プレゼンテーション 4.グラフの説明 5.ロールプレー で15分。難しかったのが3.と5. 私にとっては特に3だった。内容が、良い従業員の資質とはとか、日本語で突然聞かれても即答するのが難しいような内容にあたってしまうと、応えるのが難しい。本試験は流暢さも評価の一つで、問われたら即応え、持ち時間いっぱい使って、自分が述べることの根拠を示しながら説明していかなければならない。こういう要件は普段なれていない話し方(客との間であれば質疑応答なので、即答するよりも、応える内容をまとめて簡明に説明しようとする)なので、やりにくかったが、ビジネスの為には反射的にとにかく応える、提示と根拠や詳細説明というパターンで練習しておくということは有効だと思った。

また、グラフの説明という項目も、仕事の会話では必ず使う要素なので、必須という扱いもスキルアップに有効だと感じた。


疲れが溜まった夏だった。涼しくなったこの週末はとにかく良く休んだ。これは立派なアヴォカド。スライスしたオニオン、トマトと一緒にオープンサンドにするか。それとも真っ赤なマグロとモッツアレラチーズと和えてオリーヴオイルを垂らせば、立派な白ワインのお供になりそう。


2021年9月25日土曜日

夏終わりぬ

先週はアマチュアコンクールの一次予選。毎年この機会を一つの目標に1-2曲仕上げるペースにしている。今回は一次で終わり。この機会が終わるといつも夏が終わったと心身共に感じる。

途中まではいつも通りに弾けていたのだが、思わぬところで左手の暗譜落ち。右手で繋いだものの、これでは仕方がない。杉並公会堂のベーゼンドルファーの音色が美しく、もっと弾いてみたかったものだが。

はつはつに咲きふふみつつあしびきの暴風にゆるる百日紅のはな

斎藤茂吉

2021年9月12日日曜日

やすむ

酷暑からいきなり10月の冷え込みとなり、タオルケットも新しく出し備えていたのに、今度はまた10度以上も気温が上昇。

家族も同僚も体調を崩し。その上、期末で追い込みやら、整理やら、期末処理やら。

あー休みたい。

と思ったら、彼らに見習おう。足を身体に隠し、歩きも泳ぐ気もないことを体現する。他が何しようが(泳ごうが、話しかけようが)、泰然と。やすもうではないか。疲れて疲れて働いても、良い知恵は浮かばない。

2021年9月4日土曜日

FP2級

キャリアコンサルタントの資格を得た時に、この資格に相乗効果のある知識/スキルがあるか考えてみた。自分がクライアントなら、キャリアの相談をしにいった時に、やはり気になるのは生計だ。ということで、ある程度クライアントの心配を受けとめられること、アドヴァイスもできるし、自分の手に負えなければレコメンドもできるようになりたいと、ファイナンシャルプランナーの試験を受けることにした。

FP試験は金融関係者にとっては基礎知識編かもしれない。だが金融の素養のない一般人には普段覚えることもない幅広い分野での知識が必要なので苦手意識をもつ人も多いのではないか。少なくとも私にとっては閾は高かった。それなのに、何故か最短でとろうと無謀な考えをおこしてしまった。本来であれば3級、2級とステップを踏むところを、いきなり2級を受けることに。いきなり2級を受けるには講座を受けなければいけないので、通信講座を受けた。

テキストを読んでみると、生活に根差した必要知識もあり、世間を渡るに必要な知恵が身に付いた気がしてなんだか得した感じ(全然活かしてないので何も得していないのだが)。眠気と闘い、どうにかテキストを読み終わった。ここまでで既に「戦い済んで日が暮れて」的な気分に。自己満足に浸ってしまったのである。

試験の1か月前にテキストを読み終わり、3週間前にやっと重い腰をあげて、過去問をやってみたところ、信じられない(お気楽とんぼの自分だけが信じられないだけなのだが)結果が。6割が合格ラインなのに、なんと3割しか正答率がない。今思えば自分を知らないとは恐ろしいもの。嘘だろう?ともう一回分やってみても全く同じ3割だった。

分野は、ライフプラン、リスク管理、金融資産運用、税金、不動産、相続と6分野。試験は学科と実技(計算)。分野ごとに爬行性があれば、勉強の優先順位も立てやすいのだが、全ての分野が3割。学科と実技も同様に3割ずつ。なんと、正真正銘平均的に合格ラインの半分なのだった・・・。

この絶望的な状況把握ができたのが、試験2週間前。

ここで、戦略的な行動にでることにした(換言すれば、捨て身ともいう)。学科は捨てて、実技に集中することに。内容の理解度が1/3の私にとって、多岐にわたり記憶しなければいけない学科は無理。まだ、実技は目的(相続税や保険金を計算する等)が明確で、試験パターンも少なくとも学科よりは限定されるとみた。

直近5回分の試験をとにかく解いて、回答を読んで、わからなければテキストを参照する。それを3回繰り返したところでタイムアウト。

結果は、有り難いことに狙ったとおり実技は合格。火事場の馬鹿力。当たり前だが、広範囲学科は不合格。なんと学科は、時間の最後に考え直して回答を書き直した問題が、書き直した方が間違っていて一問の差で敢え無く失敗。小説のような話だが、FPの神様がこんな奴を合格にできないと押し返したのだろう。

二回目の試験では実技は免除で学科のみ。3か月時間があったのでFPの勉強をすればよかったのだが、他の勉強に集中していて、またもやFP1か月前に学科の勉強をしはじめた。今度はテキストは読まずに試験対策に集中することに。戦略自体は正しかったが、3か月で泥縄の知識は抜け落ちて、前回試験では合格ラインぎりぎり割るところまでいったのに、また3割に落ちてしまっていた・・・。あぶく銭ならぬ、あぶく知識は身についていなかった。

今度は、過去問を5回やったところで、1分野毎、A3で2枚だけ、苦手な部分を自分なりの整理(表)をした。学科の方の細かい数字を暗記するのは、結局、現在の規則や仕組みの背景にある考え方を理解しないと、丸覚えするだけの若さはない。結果としては、これは上手くいって、前回のようなハラハラどきどきレベルではなく通ることができた。

FP2級の試験には受かったものの、当たり前だが泥縄の知識では職業的なサービスにまでは至らない。初心に戻り、キャリアコンサルタントとして相対するときに、どういうことを知っていれば視野広くサポートできるかという観点で、ライフプランニングに焦点を当てて情報の蓄積・整理をしていきたいと思っている。

今回の勉強に際しては、過去問に関してはお金の寺子屋 参考書ではFP教科書 滝澤みなみ著 にお世話になった。有難うございました。


9月に入って、10月の寒さと雨が続く今日この頃。

2021年8月29日日曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(3)(4)

豪雨が日本列島を何度も襲い、甚大な被害が出る一方、東京はコロナの一日の新規感染者が5000人を超える日もでた。そんな中、パラリンピックも始まった。

先週一日夏休みをとったのに、7月から始まった大型商談が大詰めで、結局終日客と社内の調整で終始してしまった。どうにか今週、内示を受け、まだまだ課題もあるがほっとしたところ。

ピアノの方は、練習不足の1楽章が手に入ってくるように、曲想が粗くなるのを覚悟で、メトロノームで速度を上げて通しで弾く回数を稼ぐことにした。千本ノックまではいかないが100本目指している。殆ど体育系。

実は体育系と芸術系は類似点が多いと思っている。地道な練習なくして自由度があがらないし、ある程度身体が動くようになったら、いかに人より上手くなるか。「上手く」の定義、優先順位、戦略を描いて練習するかで差がでてくる。少なくとも優秀な人はそうだと想像している。

自分のピアノの練習に戻ると、冒頭の目指せ100本!の甲斐あって少し早く弾けるようになった。テンポの自由度が増したし、ずっと力を入れていられないので力が抜けるようになってきたのは良かったこと。一方、最初に覚悟した通り、速さに力点を置いたので、曲想が粗くなってしまった。

厳しい批評眼(耳)をもつ母からは、冒頭がきれいに流れるようになってほっとしたが、陰影がない演奏ね、とのこと。耳が痛い。

ピアノレッスンでは、先週はフランス音楽講座での指摘をどう具体化するか、今週は母の批評を受けてどう陰影をつけるか試行錯誤した。どうしてそう言われるのか。どういう風にひけばいいか。対策は?

自分がやりたいと思うことを訥々と話し、先生が引き出しを探っていくつかの選択肢を提案してくださる。刺激を受けて、もっとやりたいことが広がる。これは楽しい(自分が実際できるかどうかは別として・・・)。

「陰影」は、そうやって考えて表現を考えていく部分があるが、その根幹には自分の感情がないと表現もできない。人生経験の多寡もあるかもしれないが、それ以上に感受性の敏感さが必要に思う。私自身は、その感受性は、ビジネスモードで感情を極力排している時にはなかなかでない。モードの切り替えは、言うは易し、行うは難い。


九州の親戚から母にレッドオニオンをいただいた。豪雨の前の贈り物。お酢に漬けて。スライスしてサンドウイッチに。食欲がなかった母もパリパリといただいた。自然の力は本当に有難い。

2021年8月9日月曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(2) 3楽章(7) フランス音楽講座

オリンピックが終わった。その間、東京の新規感染者は4000人を超えた。これからパラリンピック。まだまだ気が抜けない。今週は例年であればお盆の帰省時だ。昨年は自己抑制して巣ごもりする人が多かったが、報道では今年は里帰りする人も昨年より増えるようで、人流はコントロールが難しいステージに来てしまっているようだ。

フランス音楽講座を先月に3楽章を再度、今月は1楽章と受講してきた。フランス音楽講座でドイツ音楽をみていただくのは肩身が狭いが、先生のご指摘はフランス音楽にとどまらず的確なので、申し訳なく思いながらもっていった。

3楽章は漸く手になじむようになってきた感があるものの、先生からは今一度和声の流れを意識して表現すること。冒頭の右手と左手が交互に流れるような受け渡しをする形は、ややもすると疾走して「綺麗」で終わってしまう危険がある部分だが、右・左で和音におさえてみることで、ストーリーが浮かび上がってくることを確かめた。

今月は初めて1楽章をもっていった。3楽章では文献を探してまでスタッカートや装飾の解釈について考える機会を与えられたが、今回は曲想や楽譜の解釈については特にご指摘はなく、音が濁らないようペダルの踏みかえやフレーズの終わり迄細心の注意を払うことを求められた。時間がない中で気になる部分を注意した、ということなのか、それとも歌い方は弾き手に任されていると意識的に指摘されなかったのか。1楽章はレスタティーヴォ ソナタとの別名もあるように、途中(再現部)にラルゴでレスタティーヴォ(朗唱)が挿入されている。テンペスト(嵐)をずっと奏でていたのに、そこだけ雲をつきぬけて異次元にいってしまったかのような不穏な部分だ。1楽章はテンポも変わり、劇が暗転するかのように背景もがらっと変わる。ストーリーの描き方はピアニストのイマジネーションに委ねられている感が強い。

2021年7月31日土曜日

夏の風物詩

昨年に続き今年も、五感が鈍ったかのように、夏の風物詩を感じないまま7月が過ぎてゆく。

夏休みに入り、いかにもプールにいく準備万端の子供達、一方で夏期講習に通い始める子供達。神輿の興奮さめやらぬ祭り人、浴衣姿を楽しむ観客。花火に興奮すして走り回る子供達、花火を理由に夕闇寄り添い歩く人達。

一輪の 花となりたる 揚花火 山口誓子


2021年7月23日金曜日

音にちりけり 雲の峯

今日は五輪開会式の日であり、スポーツの日。四連休だ!連休は嬉しいが、週3日に仕事が集中し、疲れ果ててダウン。商談が心配でスマホで会社の緊急の相談がないのを確認し、あとはただただ、ひたすら睡眠。

先日はピアノの先生にお誘いいただき、川崎シンフォニーホールといっても市民交流会だが、スタインウエイでテンペストの1楽章を弾く機会をいただいた。小規模だが、規模にあったピアノでとても音響が良く、気持ちよく演奏することができた。ただ、思わぬところで暗譜落ちをし、前半は落ち込み。思い切った後半は音楽に没頭でき、コントロールしながらも感情を込めて弾くことができたと思う。私自身が音楽を聴くときはプラス思考なので、良い部分が良ければ加点するが、コンクール等点数や順位を分かり易い基準で明らかにしないといけない場は基本的には減点主義だろうから、こういう出来ではマイナス甚だしい状態と言える。はあ。なかなか演奏レベルが安定しない。

ソロ以外に嬉しい企画は、希望者は先生と連弾もできるので、お願いした。本当はクラシック音楽が順当なのだろうが、私のお願いした曲はピアソラの「デカリッシモ」。なんと本番の2週間前に楽譜を送り、2回30分程度あわせただけ。でも、とても楽しかった。今年はDuo Pockeysの連弾は見送ることになったので、合わせる楽しみを味わう機会なくとても寂しかった。今回はたった2回の練習と本番だったが、人と合わせて音を創り出す楽しみをあらためて味わった。


母の体調が少し戻ってきたので漸く先週から復活させた早朝散歩。通り抜ける近くの神社では、風鈴が下げられていて、ちりちり、と綺麗に鳴っていた。

風鈴の 音にちりけり 雲の峯 正岡子規

2021年7月17日土曜日

新盆 収穫のおすそ分け

東京では新盆が終わった。店頭にはまだほおづきや菊が並ぶ。

墓参りに行こうと思っていたが、今日は疲れ切って動けなかった。

いきなりの夏空に、つい先日までは梅雨だ、ゲリラ豪雨だ、と言っていたのに、見えるのは入道雲。聞こえるのはやかましい程の蝉の声。こういう夏の日、そういえば父は会社は土曜日が半ドンだったのに結局残業で夜に帰宅していた。それでも普段よりはずっと早い時間帯に帰れるから、実に嬉しそうな顔をして、汗をふきふき、声も高らかにただいま!と言って玄関に入る。働いて働いて、週末を迎える気持ち、今ならよくわかるのだが。あの頃はただ、父の弾む声に、今日は土曜日なのだなと感じた。

水を浴び、着替えたら、母が急ぎすいかを出す。父は真剣な顔で塩を少量降振って、生き返ったようだと言う。時には、子供達にちょっとしたお土産があることも。舟和の芋ようかんだったり、コロンバンのワッフルやアップルパイだったり。

まだ夜の帳が下りる前、夏だから夕焼けが消えきるかどうかという時。熱い日差しの名残も去り、ふっと風が通る頃。菓子箱をあけて歓声をあげる子供達を満足気に眺める父。数十年も前なのに、夏の夕べの風が通り過ぎるとき、家族が集まった時の幸せの記憶が蘇る。

友人から、市民農園に通ってつくったというじゃがいもをいただいた。ころころと、大地の栄養を吸い尽くしたかのようになんだか元気のいい姿だ。友人が育てる間注いだ時間と労力の結果がここにある、自然の力と友の気持ちをおすそ分けいただいた。

2021年7月4日日曜日

久しぶりのホールでの演奏

自治体のホールでスタインウエイを演奏させてもらった。

時間は短時間だったが、思いきり弾くことができて楽しかった。

自宅はマンションなので、マンション規約よりも厳しく律した時間内で練習するようにしているが、それでもやはり遠慮して弾く。思ったように、ホールで響くような音を出す練習はできない。部分練習は消音にしているので、リアルな音でのペダルの調整もできていない。

だから、今日はホールで弾けるのだから、音が響くような腕の使い方、ホールにあった(響きすぎる?響かなすぎる?)ソフトペダルとダンパーペダルの踏み方。ペダルを外した時の生の音が乾きすぎていないか、もっと指を押し付けて圧着した感じがでた方がいいか。いろいろ試したいと思っていたのだが、そんなこと忘れて楽しんで弾いた。

これは山胞子?アイヴォリーの色が美しい。ピアノは以前は象牙でつくられていたので白鍵はこういう色だった。少し黄なりのやさしい色。

2021年6月20日日曜日

Adios Nonino

父の日に。

私が好きな曲。アルゼンチンのタンゴ作曲家 ピアソラが作った父Nonino(愛称)のための曲。 

Piazzola plays Adios Nonino

ピアソラ(1921-1992年)は1954年フランスでクラシック音楽を勉強するが、先生からあなた自身の音楽(タンゴ)に励めと言われる。その言葉を彼はどう受け取ったのだろう。クラシック音楽界ではこれ以上学んでも芽が出ないと思ったか、自分のルーツを個性にしようと腹を括ったか。翌年の1955年にはブエノスアイレス八重奏団を結成。しかしタンゴの破壊者と位置付けられ、1955年に居を移しニューヨークへ、1959年にはプエルトルコ巡業に。そのさなか父の死の報を受ける。お金もなくすぐに帰ることもできない。


父からはじめてもらったバンドネオンが彼の音楽のルーツなのだろう。肉親であり、また音楽の師でもあった父が亡くなり、その場に居合わせもできなかった。この曲は一夜にしてかきあげたという。

父の日に。この曲を毎年のように聴いている。

2021年6月19日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(1)

オリンピック予定開始日まであと一か月近くとなる今、緊急事態宣言が解かれた。世論は開催のリスクより命の安全を取りたいという声多いように思えるが。ここにきて誰が正式に開始を宣言するでもなく、開催の方向に潮目が動いていることを感じる。

海外の客と、以前は対面(出張)か電話会議だったのが、今やWEB会議が定例化している。ice breakの雑談にオリンピックの話がでることはなく、まだ海外旅行は無理だが国内旅行ができるようになり少し遅い夏休みを楽しみにしているといった欧州客が多い。一方、まだまだ大変なのがインドの客だ。需要をいち早く政府主導で戻しそのままトップランナーである中国の客と話すと、国毎の状態の違いを痛感する。

今日は朝から梅雨らしい天気。以前もっていた雨靴が、骨折以来痛くて履けず、そのままで適当にしていた(要は履きやすい撥水加工のウオーキングシューズでずぶ濡れと乾燥を繰り返していた)。しかし、とうとう思い切ってショート丈の軽量雨靴を買った。シンプルなデザインと材料で安価。でも、お蔭で雨でも歩くのが楽しくなった。水たまりも怖くない!

早速、初めての雨靴でスタスタと。バスにも乗らず30分ほど早歩きでピアノレッスンへ。3楽章の目途がたたないので1楽章の練習まで手が回らなかったが、流石にまずいでしょう。今日は1楽章をみていただく。

先生にはテンポと拍の意識をもっと研ぎ澄ますように、また、ある部分は音価一杯に密度濃い、圧のかかった音を出す必要があることの指摘を受けた。

3楽章は、ある意味速度一定のベルトコンベアーのように、速度はあまり振らさない中での音色やハーモニーによる変化できかせる難しさがあることは前に指摘をうけたとおり。1楽章はベートーヴェンによる速度の指示がかなり多くある。加えてフェルマータ(休み、停止)もあり、芯となる速度を体得しておかないと、演奏者に思いがあっても、聴衆にはずれずれの気持ち悪さが先にたつのだろう。

また、音の軽さはフランス音楽を弾きなれた癖(本当は使い分けられなければいけないのでフランス音楽のせいではなく自分のコントロールの問題)、逆に音量の大きさを意識しすぎて(フォルテ記号)真上から強く打鍵しすぎて、深い音色や圧のかかった緊張感のある音価を実現できなかったりしている。単音ではできるが、テンポの中で実現するのはまだまだ難しい。

でも、ピアノのレッスンは楽しい。気が付かなかったことを気づかせてもらったり、できなかったことが遅々としてでもできたり。仕事や人間関係ではなかなかシンプルに前進は見えないし、期待すべき対象でもないけれど、ピアノは自分が時間と労力を注げば、ある程度の前進はある。音楽の喜びと共にやり甲斐も感じられる。こういうところが音楽「療法」といったような活用の仕方に繋がっているのかもしれない。

2021年6月13日日曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(6) フランス音楽講座

ピアノの先生のレッスンを土曜日に、フランス音楽講座を日曜に受講した。

講座では、スタッカートの解釈が前回の宿題だった。調べるために、児玉新氏の「ベートーヴェン研究」/春秋社とベーレンライター版の楽譜を取り寄せ、にわか勉強をして臨んだ。

結論としては、3楽章冒頭のメロディーのスタッカート(に見える縦線)は「句読点」の意味あいだろうと仮位置づけし、そのあとのスタッカートはそれぞれ文脈?で判断することに。ただ、今までの「スタッカート(短く切る)」を指が覚えており、句読点の弾き方にはすぐには変えられず。そのまま講座に臨んだ。

講座では、解釈は問題なく、しかし音の出し方のご指摘が多かった。速さとペダリング(濁らないように踏みかえる)にかまけて、指のコントロールが疎かになり、音が硬かったり、音価一杯おさえられていなかったり。細かいといえばそうだが、そのまま音色の違いに繋がるのだろう。

スタカートについては、ご指摘いただかなければ調べもしなかった。何故こんなところで縦線(即ち鋭いスタカート?)とは初めて弾いた高校生から思っていたのに、疑問もなくベートーヴェンが書いた(鋭いスタカートと理解)どおりに弾くしかないと判断していた。

窓 あるいは扉、が次々と開き、そしてまだまだ奥に自分の知らない世界があることを見せつけられた講座だった。それは、自分の力が及ばない悔しさではなく、知らないことがいっぱいあるわくわく感。知らないことを責めるのではなく、知らなければ教える、ご自分が知らなければ一緒に発見する楽しみを味わおうと待ち構えていらっしゃる先生の好奇心のお蔭だ。

早朝散歩していた時にであった白い鳥。跳んだり泳いだり、気持ちよさげに縦横無尽に波際を遊んでいた。(何という鳥かな・・・)

2021年6月6日日曜日

1802年 「テンペスト」作曲の年

 ベートーヴェンが32歳の時のだ。

今、「ベートーヴェン」平野昭/新潮文庫 を読み返している。年譜が巻末についているので便利だ。

この1802年という年は、ハイリゲンシュタットに滞在し、後に「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる、二人の弟に宛てた自殺まで思い詰めたことが記されている。平野氏によると1798年頃には親友に難聴の兆候を打ち明けていたという。この、音楽家にとって致命的な打撃ゆえこの地で引きこもっていた時期だ。

音が聞こえなくなるという恐怖と、それを認めざるを得なくなった時、どのような気持ちだったか。自分と比べるのもおこがましいが、ストレス性の突発性難聴になり、医者からは良くなることはなく悪化を防ぐためにストレスレスになるよう努力するしかないと言われた。聞こえにくさもさることながら、音が微妙に上がって聞こえるようになり、今や完全に1度高く聞こえるようになってしまった。私ですら受け容れがたい気持ちだったのに、音楽家にとってどのような思いだったか想像するに難くない。

そんな苦しみや救いを求める心を投影したかのように思えてしまうテンペストだが、一方でその作風には野心的な点がいろいろある。

平野昭氏の本 「ベートーヴェン」音楽之友社 に対し、紀伊国屋が書評を出している。

https://booklog.kinokuniya.co.jp/imaiakira/archives/2012/11/post_79.html

1802年はまだ旧式のピアノを使っており、1803年にエラール社の新しいピアノを入手している。ベートーヴェンは貪欲に新しいピアノを取り入れていて、生涯に10数種類のピアノをもったと言われるが、テンペストを作曲した1802年には古い(膝で押し上げるペダルの)ピアノだったはずなのに、新式のピアノでのペダル(足で踏む)の指示になっているという。一楽章の型破りな冒頭、レスタティーヴォ(話すような独唱、独白)という表現指示を施したり、独創性はかえって増したようにさえ見える。



2021年6月5日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(5)

今週はきつかった。

有り難いことに、きつさの半分は引き合いの多さなのでこちらは嬉しい悲鳴である。コロナで引き合いが激減したのも中国、欧州、の順であったが、戻る速さも同じだ。

中国は5月の全人代で投資に安心感がでたのか、購買意欲が旺盛。欧州もワクチンの進行と、今年は夏のバカンスの期待で、例年の夏休み前6月頃迄商談というシーズン性が復活している予感がする。

と言う訳で全然練習もできていないし、折角取り寄せた児島新氏の「ベートーヴェン研究」もまだ読めないうちに、ピアノレッスン日。

今回は初めて暗譜で弾いてみる。とりあえず最後まではいった。

暫く考えたあと、先生の講評。たとえが面白い。一楽章と比べて、速度指定もかわらないし、音価は殆ど八分か十六分音符なので変化があまりない。同じ速度で流れていく、似たような長さのベルトコンベアーの流れを、どうやって見せ続けるか。音楽であればどう聴かせられるか。そこには、速度、音価ではない何かがなければいけない、と。色調(調性)の違い、音色(タッチや感情)の違い、を表情としてつけなければとおっしゃっているのだろう。

この曲に自分の心象風景を投影するならば。漣のような心の胸騒ぎが、アルペジオで一瞬うねるが、また心落ち着かせようとする。フレーズで大きくとる部分と、一小節単位で(調性がかわっている)感情が微妙に変わっていく。緊張を強いる繰り返しと、そのあとに何故か長調の明るいトーンが一瞬差し込むのに、またすぐに横殴りの雨のような制御し難い焦燥感。

調性の変化を楽譜を追えば感覚的にわかる位、訓練できていない私は、やはり楽譜を一から追って、音で確かめて、どう弾こうか悩むしかない。

でもこの試行錯誤が音楽の楽しみ、醍醐味なのだろう。

帰ってから母に聴いてもらうと(この曲のリクエストは彼女だし)、「気が乗らない、ねぎのような音」と評されてしまった・・・。ねぎ(最近は母は、中身がスカスカなネギに出会ってがっかりしていた)みたいなベートーヴェン。略してネギベン。

母は鋭い感性の持ち主で、かつ、私の演奏は幼い時から聴いているから、さすがに第一音で、気持ちがこもっているか即分かってしまう。平日のビジネスモードを引きずっていると、簡単割り切り直線モードなのだ。もう一度弾き直し。また弾き直し。三度目で「乗ってきたみたいけれど、粗いわね。」と。お見通しです。乗って弾くとまだまだ練習不足で技術的な粗が目立つので、速度を遅く、慎重に石橋渡っています・・・。


早朝散歩で出会った蝶。翅が白く透き通って綺麗だったので撮ってみた。

蝶白し薄暑の草の道埃 田中田士英

2021年5月30日日曜日

キャリコン リモート会

 キャリアコンサルティングの講習で知り合った人達と、LINEでつながっているのは、嬉しいことだ。ふらっと情報共有されたり、今回のようにGWあとにリモート飲み会しようと言い出してくれる人がいて、近況を報告しあうのは格別嬉しい。

年齢も20代から60代まで。人事関係が9割以上だが、親の会社を継ぐからとか、人事にくるまでは技術系だったという人も。人事関係といっても私企業も、官僚も、大学関係者も。普段会話しない人達と、3か月コンサルティングという講座故に、自分を(程度こそあれ)さらけだして必死に一緒にぶつかった人達だからこそ、腹を据えて話せることがある。

とはいえ、今回のリモート飲み会はそんな過去の講座や勉強会とは一線を画して、あれからどうしてる、何してた、プライヴェートも含めて、やっぱり飲み会だ! 結婚した人も、お子さんが増えた人も、資格を取得して早くもコンサルティングした人の苦労も、まだ資格を取得していない人の話も。

刺激になった。講習後もこうやってお互いに繋ぐには、それぞれに意志が必要だし、その意志を繋ぐ為に労力をかって出て下さる中心人物も必要だ。それぞれに感謝を。

2021年5月29日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(4)

今日はいつもの先生のレッスン。前回のフランス音楽講座での指摘を共有し、一緒に対策を検討。

通しで弾いたあと、ペダルをきちんと切ることと、フレーズの頭の部分の発音を明確にすることがメインで指摘いただき、なおしていった。どうしても当人は弾くことで手一杯で、特にペダルの濁りや音の明確さといった細かいところはおざなりになってしまう。悪いことに意識がおざなりだと、耳もそれに慣れてしまい、気が付かない。第三者の耳というのは、通常のビジネスでも大切だが、音楽でも同じだ。


今年は、紫陽花が開くのが早すぎ。もう、次々に、スタンバイ!と言っているように見える。


2021年5月24日月曜日

ウィーンの香り

デュオポッキーズの友人から、「このベッドにオーストリアが眠っている」と表されるザッハーホテル直送のザッハートルテをいただいた。彼女はコロナ流行前はよく夏はウイーンの音楽大の講座を受けに訪れていた常連さんだ。

宰相メッテルニヒに仕えていて、このザッハートルテを考案したフランツ・ザッハーが、息子と共に設立したのがザッハーホテル。ウイーンの中心地、国立歌劇場の近くにあり、世界お要人が音楽や芸術を楽しんだあとに泊まることからオーストリアが眠ると言われたそう。


ホテルとして有名なだけではなく、このザッハートルテ自体も、王宮御用達のデメルにレシピがわたったことから、長年「本家」を巡って裁判争いになったことでも有名。最後には勝訴し、「本家」と名乗れるようになったという。「オリジナル」と誇らしげに記すのもうなづける。

さて、お味は。ブラックチョコレートにカカオの香り高いスポンジ。食べてみるまでわからないが、アプリコットジャムがアクセントに入っていて、濃厚。ウイーンの香りがした。

因みに、このザッハートルテを曲名にまでしてしまった作曲家すら居る。オーストリアのピアニスト、指揮者であり作曲家のペーター・クロイダー。このワルツ、聴いてみると骨太で、濃厚なこのトルテをよく表している。

今まで一度もウイーンは行ったことがなく、一度は訪ねたい地だ。シューベルト、クライスラー、マーラー。音楽だけではない。ザッハトルテの香りに誘われて、久しぶりに旅に出たくなった。

2021年5月16日日曜日

母の日に

週遅れになってしまった話題だが、いい詩を見つけたのでご紹介。

昨年谷川俊太郎氏が雑誌「With」に書き下ろしたものだそうだ。

自分を贈る

母の日に

花を贈るのを忘れてもいい

母の日には

あなた自身を贈ればいい

(略)

あなたが誕生した日

母はあなたに世界を贈ってくれた

この世界のどこかでずっと

母はあなたとともに生きている

(略)

妹からの花。
このほかにもいろいろ生活の助けの品のプレゼント。
椎茸の煮物、インゲン焼き。身体に良い手作りの料理も。

こんなにいろいろしなくていいのに。
と母は言うが、大切に父の遺影の前に花を飾り、料理は何度も大切にしながらいただいた。母の日に。気持ちのこもった贈り物。

こんなにいろいろしなくていいのに。
でも、多分、これは母にとっての勲章。
もし受け取ってもらえたら、それは私達の勲章でもある。

感謝の気持ちが言葉や、笑みや頷きで、他の人に伝わるものであれば、母の日にかかわらず、自分自身の気持ちの一片を、母や、他の人に伝えられれば、どんなに良いだろう。

2021年5月9日日曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(3) フランス音楽講座

今日はフランス音楽講座。

フランス音楽ではないものの、事前にお願いしてテンペスト3楽章をもっていった。

なんと、最初の一小節目で。このスタッカートはこの楽譜に書かれているとおり短く切るべきか。私がもっていったウイーン原典版/エキエルはどこまでベートーベンの自筆に近いのか、或いは変えているのか。その時代の楽器や弾き方を考えた時に、この楽譜の通り短く切って良いのか。ベートーヴェンのスタッカートについてだけでもいろいろ研究があるようでその解釈は次回までの宿題となった。

写真は 上から ヘンレ版、エキエル版、全音版。


ヘンレ版は参考に購入していたもの。少なくともスタカートは私が練習していたエキエル版と同じ。一番下の高校時代に弾いた全音版は、あの頃の表記で普通のスタカートの印。




2021年5月5日水曜日

水暮れて

GWも終わり。やろうと思っていた勉強は一切やらなかったけれど、なかなか普段できなかったこともできたし、仕事のことを一切忘れて休んだ。

今まで、正月休みも、GWも、夏休みも、輸出営業は客と休みが合わないので、結局短時間でも必ずチェックしていたが、今回は止めた。最近、仕事のことを考えると眠れなくなることが多く、切り替えが上手くできなくなってきたので、今までのやり方を変えてみることにしてみた。そうしたら眠れること。ステイ・ホームで十分リフレッシュできた。

嬉しかったこと。デュオポッキーズの友人とWEB飲み会。本当はこの時期、いつもなら連弾の曲を決め、練習弾き始めの会 兼 飲み会をするのが例年だったが、今年はぐっと堪えて。だが話は右に左に、前に後ろに逸れて、彼女の話題の多さに呼応してエキサイティング時間だった。また、高校時代の友人ともメールでお互いの近況を確認。彼女ともGWには毎年必ず会っていたものだが。ただ、彼女とのメールや葉書のやりとりは、会った時の話題とも異なり、今読んでいる本や音楽についてお互い記すことが多く、同じ人とのコミュニケーションなのに結構違う面を知ることができるのが、面白く楽しい。

近くの海辺の公園にて黄色の菖蒲を見つけた。花言葉は消息、友情、音信。

水暮れて海の鳥来る菖蒲園 山口誓子

2021年5月3日月曜日

「途上国」日本の100年

緊急事態宣言下のGWは今年で二度目。コロナの広がりから約1年半。世界各国で同時多発という未曽有の危機に、各国の対応は千差万別で、「国力」というものが如実に表れてしまっている。この場合の国力とは従来言われているGDPや資源、人口、企業数、といったものではなく、政治力・人材といったものを含めた「実行力」だと思う。

ニュースで毎日、毎時間流れているように、日本のワクチン接種率は1%未満。イスラエルの62%は特別としても、米国39%、ハンガリー39%、カナダ24%。OECD37か国の中で最下位である。(4/20時点 Our World Dataより作成の高橋浩祐氏グラフ)

因みに、日本に住む伯父伯母十数人は全員高齢者だがワクチン未接種。一方、カナダに住む伯母、40歳代の従妹夫婦と3人は既に接種済。

何故日本はこういう状態なのだろう?日本という国はずっとこういう国力だったのだろうか。考え込んでしまう。

奇しくもそんなことを考えている時、突然、大先輩より本が届けられた。「『途上国』日本の100年」開国から高度成長まで(1860年~1960年)保倉裕著 三省堂書店/創英社

「はじめに」に日本の近現代史を整理してみたいと考えた経緯が記されている。「その第一は、日本の近現代史が、一つの発展途上国の近現代かの歴史であるということを再確認しておきたかったことである。(略)日本は常に「先進国」欧米への「キャッチ・アップ」と「外的」欧米からの攻撃という焦燥感と恐怖にさいなまれていた。(略)こうした日本の近現代史に関する自己認識は、日本と、中国を含むアジア諸国との鐘胆を考える上でも、重要な視点だと思えるのである。」「これまでの日本道筋をたどり、これからの日本の進むべき方向を考えるうえで、多少でも参考になるならば、これ以上嬉しいことはない。」

GWに少しずつ読み始めようと思う。


2021年5月1日土曜日

紅玉のコンポート 「アイ・ラブ・カナダ」 「世界映画名作全史」

90歳過ぎで一人で暮らしている伯母の体調が心配だと聞いた。緊急事態宣言下ではあるが、少し遠いものの同じ都内でもあり、顔を見に行ってきた。

行ってみたら心配していたよりも元気そうでほっとした。だが、内臓系の懸念点あり、検査もあり、病院通いで疲れていた。良いニュースは漸く重い腰をあげて介護申請をしてみようという気になってくれたこと。家族に、お国に尽くしたこの世代の人なので、国や人の厄介にならないよう、幾ら勧めても「申し訳ない」と言って申請しようとしなかったのだが。独りではそうも言っていられない身の危険を感じるようになったと言う。

この伯母と伯父は、共に私が子供の頃から甥や姪を可愛がってくれた。海の家へ連れていってくれたり、伯父が講演会の為にロシアに行けば、或いは夫婦でトルコに海外旅行に行けば、お土産と共に彼の地の面白い話をしてくれた。

そんな、仲睦まじい二人だったが、伯父が亡くなり。伯母が気持ちを振り切るように突然カナダに移住したのは、多分今の私と同じ年代だったかもしれない。あの当時、55歳からリタイアビザを取得できたと言う。以降、彼女が80歳前にまた日本に戻る迄、留学の時、旅行で、出張の帰りなどに何度もカナダの自宅に寄っては話をした。伯母は住んでいる間、地元の日系の新聞にカナダでの暮らしや感じたことを投稿し、それが一冊の形になっている。私も今でも読み返すと、あの時代のカナダの一端を知る者として共感するところが多い。(「アイ・ラブ・カナダ」猪俣満子著 社会思想社 下記写真はAmazonより)

一方、ステイ・ホームとなって以前より映画を見る機会が増え、また引っ張り出して通読している本がある。「世界映画名作全史」(猪俣勝人著 社会思想社 下記写真はAmazonより) 

構成は著者がピックアップした映画毎に内容が読める辞書形式。映画名、原作、脚本、監督、音楽といった基礎情報。映画のワンシーンの写真。著者の興味からなるトピックスや個人的な思い入れ等の導入部、あらすじ、批評が記載されている。

例えば「ゴッドファーザーPARTII」(略)「何か所かビドー(父)が成長し、勢力を拡げてゆくシーンがマイケル(息子)のありようと比較されていたが、それらはすべて名もなきイタ公と見棄てられたアメリカ社会の中での精一杯おあがきとして描かれようとしていたのではないか。(略)脚本、監督のコッポラ自身イタリア人であり、父のカーミン・コッポラの胸しみるような哀しいメロディの中にも、その差別された民族の哀しさがせつせつと訴えられていることがわかる。アメリカの半分を支配したといわれる巨大なる悪の組織マフィアの活動が哀しいのではない。そんな真っ黒い心の子を生んだイタリア移民の苦しい歴史が哀しいのである。カーミン・コッポラのメロディはそれを訴えてやまない。」

伯母に会ってくるならと、母はまだ痛みが取れない身体なのに、夜遅くまで赤飯を炊き、根菜を煮しめ、林檎のコンポートを作ってもたせた。深鍋にバターを。狐色になり、幸せな香りが漂う。紅玉のスライス、色付けの為の真っ赤な皮、レモン汁、シナモン、氷砂糖、そしてラム酒。煮たあとに皮を取り出すと、林檎は薄紅色に染まり、花のような優しい色合いになる。心身共に、栄養が行き届いて元気になりますように。

2021年4月29日木曜日

芝桜 GWの始まりに

GWの始まりとも言うが、今年も緊急事態宣言下。リスクと隣り合わせ。飛び石でもあり、Goldenな心地は全くない。

それでも、お・や・す・み。しかも雨なのだから、お・や・す・み。という訳で、今日は、昨夜最後に投げメールしてしまった仕事や、掃除、洗濯。気にかかっているのだが、全て忘れて、寝貯めである。

眠れることこそ最大の贅沢だ。物理的にも、精神的にも。


春の嵐雨が未だに吹き荒れる。

半分は雨に色消し芝桜 稲畑汀子 ホトトギス

2021年4月25日日曜日

春の香りの絹のさや

郵便局のエクスプレスパックが母へ親戚から届いた。

開けた途端、くさくさした香りが立ち昇る。絹さや、スナップエンドウが詰められるだけ詰めてある。

叔父が定年後、家の庭で自家用に作っている野菜だが、多分母の体調を慮って季節の走りの野菜を届けてくれたのだろう。

帯状疱疹から始まって、神経痛、食欲不振でただでさえ痩せていたのが更に3キロも痩せて、訪問介護の先生から、3食食べて、と何度も言われてきたこの冬。天気は春めいてきたが、暴力的に暑くなったり寒くなったり、春になったことを信じきれない気持ちは、母でなくともわかる。

姉に食べさせたい一心で送ってきてくれたエクスプレス。急いで筋をとって、さっと茹でる。濃い緑。つやつやとした肌。草いきれのような青いにおい。

茹でてそのまま一口。次は塩をつけて。母も食べている!

最後は邪道?でも大切に、瓶詰めマヨネーズを刷いて。旬のものは、どうやっても美味しい。


きぬさやをさつと炒めて朝の皿 長谷川櫂

2021年4月24日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(2)

平日練習できていないので朝6時に起きてサイレントピアノで練習してからレッスンを受けに行こうと思っていたのに、二度寝してしまった。はぁ。

先週からあまり改善されていないが、一旦3楽章を通しで弾く。先週はたった二段で終わってしまったので、その際に次回(今週)は二段とばして、左手にメロディーが移る30小節目のアーフタクトからみていただきたいとお願いしていた。


のっけから、30小節目は間をあけない方がいいのでは、と。左手の2オクターブの跳躍があること、そこから左手のメロディが始まるので、技術的に間をあけないことが難しいので、呼吸の為にあけたかのような「なんちゃって呼吸」を入れたら、冒頭から見破られてしまった。そうなのである。左手のメロディが始まるのだが、右手のメロディの終結部でもあり、それが折り重なる部分なので、右手にとってはここで間をあけてはいけないのである・・・。

33小節の左のアーフタクトで色が変わり、34小節目で初めて右と左の拍が合い、ニ短調からいきなりハ長調の五度、そして主和音へ移行。そこからが問題で右のオクターブは行きはよいよい、帰り(下降部)が繋がらない。左のスタカートは、鋭くきるのか、響きを優先にするのか、そもそも何故ここで長調になってしまうのかがわからないので、弾き難さだけが先に立つ。

そう相談すると、先生は「どういう風に弾きたいのですか」と聞く。それがわからないから弾き難いのだが・・・。でも楽譜の形を単純化してみると、それまでの右と左が重なり合う波の干渉のような形からいきなり大きな放物線に見える。自分が海鳥だったら(突然だが)。或いは今風に言えばドローンの映像だったら。映画監督ならどういう画を描きたいだろう。

それまでは冬の日本海(ベートーヴェンだから違うのだが)で波頭高く、しぶきが飛び散り、右手、左手、と波が次々に干渉して。砕け散って、また生まれて、何も考える暇もなく、右に左に、上に下に。波間すれすれに水が襲ってくる画だ。

ふと空が?波が?明るくなる?と思った瞬間にいきなり、海鳥だかドローンだかは、大洋に飛び出て、明るい海原を放物線を描いて昇り、落ちる。

そんな映像が浮かんだ。たどたどしくそれを言葉にすると、先生は「ではそう弾くには・・・」と右手、左手と分けて弾かせて、感覚を確かめさせる。

ということで、今日の1時間のレッスンは8小節で時間切れ。だが、私の稚拙なイメージの言語化に、先生は和声の変化を当てはめ、理論化、練習方法をアドヴァイスいただいた。

とても楽しく、学びの幸せを感じた一時間だった。