2021年4月29日木曜日

芝桜 GWの始まりに

GWの始まりとも言うが、今年も緊急事態宣言下。リスクと隣り合わせ。飛び石でもあり、Goldenな心地は全くない。

それでも、お・や・す・み。しかも雨なのだから、お・や・す・み。という訳で、今日は、昨夜最後に投げメールしてしまった仕事や、掃除、洗濯。気にかかっているのだが、全て忘れて、寝貯めである。

眠れることこそ最大の贅沢だ。物理的にも、精神的にも。


春の嵐雨が未だに吹き荒れる。

半分は雨に色消し芝桜 稲畑汀子 ホトトギス

2021年4月25日日曜日

春の香りの絹のさや

郵便局のエクスプレスパックが母へ親戚から届いた。

開けた途端、くさくさした香りが立ち昇る。絹さや、スナップエンドウが詰められるだけ詰めてある。

叔父が定年後、家の庭で自家用に作っている野菜だが、多分母の体調を慮って季節の走りの野菜を届けてくれたのだろう。

帯状疱疹から始まって、神経痛、食欲不振でただでさえ痩せていたのが更に3キロも痩せて、訪問介護の先生から、3食食べて、と何度も言われてきたこの冬。天気は春めいてきたが、暴力的に暑くなったり寒くなったり、春になったことを信じきれない気持ちは、母でなくともわかる。

姉に食べさせたい一心で送ってきてくれたエクスプレス。急いで筋をとって、さっと茹でる。濃い緑。つやつやとした肌。草いきれのような青いにおい。

茹でてそのまま一口。次は塩をつけて。母も食べている!

最後は邪道?でも大切に、瓶詰めマヨネーズを刷いて。旬のものは、どうやっても美味しい。


きぬさやをさつと炒めて朝の皿 長谷川櫂

2021年4月24日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(2)

平日練習できていないので朝6時に起きてサイレントピアノで練習してからレッスンを受けに行こうと思っていたのに、二度寝してしまった。はぁ。

先週からあまり改善されていないが、一旦3楽章を通しで弾く。先週はたった二段で終わってしまったので、その際に次回(今週)は二段とばして、左手にメロディーが移る30小節目のアーフタクトからみていただきたいとお願いしていた。


のっけから、30小節目は間をあけない方がいいのでは、と。左手の2オクターブの跳躍があること、そこから左手のメロディが始まるので、技術的に間をあけないことが難しいので、呼吸の為にあけたかのような「なんちゃって呼吸」を入れたら、冒頭から見破られてしまった。そうなのである。左手のメロディが始まるのだが、右手のメロディの終結部でもあり、それが折り重なる部分なので、右手にとってはここで間をあけてはいけないのである・・・。

33小節の左のアーフタクトで色が変わり、34小節目で初めて右と左の拍が合い、ニ短調からいきなりハ長調の五度、そして主和音へ移行。そこからが問題で右のオクターブは行きはよいよい、帰り(下降部)が繋がらない。左のスタカートは、鋭くきるのか、響きを優先にするのか、そもそも何故ここで長調になってしまうのかがわからないので、弾き難さだけが先に立つ。

そう相談すると、先生は「どういう風に弾きたいのですか」と聞く。それがわからないから弾き難いのだが・・・。でも楽譜の形を単純化してみると、それまでの右と左が重なり合う波の干渉のような形からいきなり大きな放物線に見える。自分が海鳥だったら(突然だが)。或いは今風に言えばドローンの映像だったら。映画監督ならどういう画を描きたいだろう。

それまでは冬の日本海(ベートーヴェンだから違うのだが)で波頭高く、しぶきが飛び散り、右手、左手、と波が次々に干渉して。砕け散って、また生まれて、何も考える暇もなく、右に左に、上に下に。波間すれすれに水が襲ってくる画だ。

ふと空が?波が?明るくなる?と思った瞬間にいきなり、海鳥だかドローンだかは、大洋に飛び出て、明るい海原を放物線を描いて昇り、落ちる。

そんな映像が浮かんだ。たどたどしくそれを言葉にすると、先生は「ではそう弾くには・・・」と右手、左手と分けて弾かせて、感覚を確かめさせる。

ということで、今日の1時間のレッスンは8小節で時間切れ。だが、私の稚拙なイメージの言語化に、先生は和声の変化を当てはめ、理論化、練習方法をアドヴァイスいただいた。

とても楽しく、学びの幸せを感じた一時間だった。

2021年4月18日日曜日

万作 満作

先週のフランス音楽講座のあとで、デュオポッキーズの友人から彼女の修士論文を電子ファイルで送っていただき拝読している。まわりの受講生も「私も読みたい!」と興味深々。それはそうだろう。内容はオーケストラ等の舞台芸術団体の運営について、独自の視点で切り込んだ骨太な大作だ。情報も分かり易く整理されているので、理解し易く説得力が増す。

同世代で、同じ時代に共に仕事に邁進してきたという同士にも似た共感をもつ彼女だが、安住せずに会社を早退され新しい世界に跳び込み、その成果を着々と出している姿をみるのは、いつも眩しい。

初春の花と言われるのだが、家の近くに美しく咲いているので・・・。万作 あるいは満作という。まず咲く ということで名前がつけられたときくが、赤の色の華やかさからも、漢字の名前からいっても、友人の論文にぴったり。万或いは満、いづれも人として満点という意味だろう。素晴らしい。

2021年4月17日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(1)

この曲は前にも記したが、高校二年生の時に初めて弾き、40歳を超えピアノを再開してから一度日墺アマチュアコンクール(通称アマコン)にもっていったこともある。

奥深い曲で、その時々で感じることも、弾き方も、発見もいろいろある気がする。母が特に好きな曲なので、自分の体力の衰えも考え合わせ、今年で最後になるかもしれないと再度チャンレンジすることにした。

若い時の癖や、体力がないことをカバーする為の指使いに慣れてしまっているのを、今一度見直すところから始めているので、なかなか譜読みが進まない。自分の中で弾きたい像ができていて、そしてベートーベンの弾き方(フランスもののように軽いタッチや脱力を上手く使う、ことと一線を画す)に慣れるために、3楽章から練習を始めた。

今日はピアノの先生にみていただく再チャンレンジ1回目のレッスン。時間がなく2ページしか練習していかなかったので、まずはその中で弾きにくいところはどこですか?と。物理的な難しさと、弾き方の難しさと分けて伝えた上で、弾き方が難しい冒頭の二段をみていただくことに。アーフタクトではじまりスタカートで切れる一節。左は一音目ではなく二音目が延びる変則的な伴奏。16分休符をはさみ追われるように掛け合う右と左。たたみかける3回の繰り返しのあとに繰り出される和声の変化。どうすればこれらの特徴が示すストーリーを語れるか。結局この二段をいろいろ先生と対話して一時間のレッスンが時間超過で終わった。

自分よりも知識も表現手法の経験も優れている人に、強制されるでもなく、付き従う訳でもなく、自由に対話しながら曲を一緒に仕上げていくという時間は素晴らしい。子供の時から、ピアノの先生には良い先生にあたり触発されてきた。今や先生の年齢の遥か上になってしまったので先生の言葉も年齢をいくばくか加味して丁寧に話していただくが、それでも音楽に関しての知見は先生の方が多く、優れていて、いろいろな見方や知識を教えていただくと、目から鱗が落ちたり、一緒に創っていく喜びに触れたり。音楽の楽しみの大きなひとつだ。


2021年4月11日日曜日

ショパン ワルツ 13番 19番

フランス音楽講座にショパンのワルツ2曲で臨んだ。

舞踏系は苦手意識あるが、小曲で、技術的に時間が少なくともある程度に仕上げて講座にもっていけるように・・・と効率指向の選曲。

13番はショパンが若い頃の作品。まだパリに行く前、ポーランド時代の作曲だ。若さの溌剌とした勢いもあるが、(A)二声のメロディ、(B)舞踏のリズムが明確な華やかさ、(Trio)ヴァイオリンとチェロの二重奏曲、と言えるようなそれぞれ特徴的なワルツで構成されている。優美なメロディとめりはりの効いた場面転換を思わせる進行は、パリのサロンで十分に聴衆を魅了しただろう。

対照的に、19番はショパンが亡くなった後に発行された遺作。書かれた時期も晩年とされていて、素朴なポーランドの踊りらしいメロディが繰り返されるシンプルなつくりだ。あまりの簡明さ故か、華やかさが少ないせいか、弾かれる機会が他のワルツに比べて少ないように見受けられるが、このややぶっきらぼうとも言える素朴さは、晩年で修正する気力もなかったのか、はたまたこれが彼の脳裏を駆け巡っていた旋律で、複雑に書き直す意味を感じなかったのか。いづれいせよ、遺作という言葉がもつプライヴェートな感触を強く受ける。一度聴いたら忘れられない、つい口づさんでしまうメロディ。音域が非常に広く、舞台の端から端まで使った踊りのような、二次元ではなく空間を感じさせるつくり。13番と対比させるとやはり年月で培った巧みさが、意識せずに土台にされている感を受ける。

若書きの溌剌さも、晩年の、何か結集したかのような、凝縮したような簡明さも、共に心に残るショパンのワルツだ。