ラベル 音楽、母の空中庭園 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 音楽、母の空中庭園 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年5月14日日曜日

フランス音楽講座 プーランク 3つのノヴェレッテから第2番

今年弾く曲をとうとう決めました。

ここまで決めるのが遅くなったのも今までなかった。GWにとうとう決めて練習をはじめた。プーランクのノヴェレッテ第2番とフォーレのノクターン第2番。2-2コンビ。

はじめにフォーレを決め(これが決めるまで時間かっかった)、それと対照的な曲を選びプーランクのこの曲に。プーランクは手が大きかったので、自分の手のイメージでオクターブ越えの和音をガンガン使うし、譜読みが難しいしで、早い曲は今まで一度も手をだしたことがなかったが、フォーレがエモーショナルなので、テンポ早く、切れが良い、ということで、弾けるかどうかは別として選曲してしまった。

練習はじめたら、予想よりも譜読みで時間がかかり、次にテンポをある程度早める(まだ指示どおりのテンポからほど遠い)のに時間がかかり、今朝は講座直前、5時起きで泥縄練習で臨んだ。

間違いも多かったが、テンポを上げて拍感を意識したら、どうにか曲の雰囲気は少しだせるようになった。弾くまで緊張で身体がカチコチになったが、リズミカルでユーモア?に富んだ曲想に助けられどうにか最後までいけてほっとしたところ。

ところで、今日は母の日。昔、紙でピンクの花をつくって贈ったことを思い出した。母は子供達がつくったへんてこな花を喜んで本当に長くもっていてくれた。

2022年9月19日月曜日

Kapellを聴きながら ショパン ソナタ2番 3番他

各地 荒れた三連休だった。

少ないものの国内客の工場に台風の被害がないか、大雨の中国や地震の台湾で客先に影響がないかヒアリングしてもらったり、九州の親戚の状況を確認したりであっという間にもう最終日。

東京はハリケーンのような横殴りの雨かと思えば、狐の嫁入りのようなお天気雨だったり落ち着かない。こんな日はと網戸の掃除をするしかない。マンションはベランダ掃除にも下の階の人に気を遣うが、これだけの雨なら少々の網戸の水の跳ね返りも気が付かないのではと。

気張ってやり始めていると、久しぶりに友人からLINEが。「今 NHKFMでウィリアム・カペルの演奏やってます。」急いでつけると耳に飛び込んできた。彼女のチャットが続き、同時代に同じく夭逝したリパッティも思いだしながら、お互い朝から良い演奏を楽しんだ。

網戸掃除も漸く終わり。身体も動けなくなるくらい汗もかき、暫し休憩。いただいたKapellのソナタ集をかけてみる。一枚ずつ聴いていくのが楽しみで今回は二枚目。ショパンの3番、2番、途中にワルツやノクターンがはさまって音楽会のような構成だ。そのあとはメンデルスゾーン「羊飼いの嘆き」、シューマン「ロマンス」、モーツアルトのソナタ16番。ショパンのソナタもいいが、小品がいい。「自分の弾き方」を聴衆に喧伝するピアニストが多い中、内省的で押し付けない弾き方は耳にすっと入ってくる。

いい音楽を聴き、それを友とも分かち合えるとは幸せなことだ。


2022年9月11日日曜日

フランス音楽講座 「夜想曲」「サルタレッロ」マスネ

スタイルとリズムの為の練習曲から二曲もっていった。

今日は聴講が多く、弾く人が少ないので緊張して臨んだ。小品だが、夜想曲は「珠玉の」との修飾語に値する美しい曲。サルタレッロは中世のイタリアの舞曲で、小さな跳躍が特徴。早くて指がひきつるが運動性とマスネのメロディーが合わさると不思議に忘れ難い一品となる。

フランス音楽講座なのだが、今日受講生が弾いたブラームス「6つのピアノ小品」から#1と#2曲が秀逸で、今も耳に残る。冒頭から心をわしづかみにするメロディーに引き込まれ、もの哀しい雰囲気を抱いて終わる。脈絡もなく、季節の移り変わりを意識し、ああ、もう秋なんだ、と思った。

この他、20年前の受講生の方がたまたまドイツから里帰りで参加。飛び入りで、先生と連弾。ビゼーやスクリャービンを初見で弾かれ、先生と即興でのセッションに皆大興奮。こんな贅沢があるなんて。いろいろ辛いことがあっても、時におもいがけず、こんなボーナスがあるから、生きていけるんだなあと思うほど音の喜びに酔った時間だった。



2022年7月23日土曜日

アポロのピアノ@エプタ・ザール DUOポッキーズ

今日は狛江のエプタ・ザールでアポロのピアノを弾いてきた。

DUOポッキーズでビゼーの「子供のあそび」から「ぶらんこ」「回転木馬」の曲目。

アポロは国産のピアノメーカー。私が初めて4歳の時に両親にアプライトを買ってもらってから、40年以上も共にいたピアノもアポロだった、だから久しぶりにホールで弾くアポロは、グランドピアノとは言え、旧友に会ったような懐かしさを感じた。

よく響くピアノで、それだけに低音をこまめにペダルを変えなければならず、初めの数小節は苦労した。そのあとは伸びやかな音を楽しんだ。

友人と弾く喜び。昨日も仕事のあと友人宅に寄り、夜の特訓。GWに初めてもちよってから、3人の先生にみていただき、息も切らせぬスポコンの練習もしたし。「ぶらんこ」は曲想も変えた。子供の頃、軽い体でぶんぶん漕いでいた頃を思い出して。空に向かって飛び込んでいくような、一番頂上まできたら青い海が見えて心が興奮で震えた、そういった曲にしようと話し合った。

特訓が終われば、また友人の手料理の美味に舌鼓。先生にならってコンサートの前は肉料理でしょ、と 焼きたての豚肉を山盛りの香ばしいルッコラに豪勢に盛り、オリーブオイル醤油を垂らした心憎いメイン。ジャズリンゴ、セロリ、クルミに鶏肉のウォルドルフサラダ。枝豆のアヒージョ。これだけ美味しいお肉をいただけば連弾 上手くいかないはずはない!とおだをあげて味の濃いスペインの白ワインで本番前の祝杯。


食卓に飾られていた蔓花茄子。お土産にいただいた。花言葉は「大きな恵み」
今日は存分に連弾を楽しむことができた。これこそが「大きな恵み」に違いない。

2022年7月18日月曜日

言葉と音楽と 香りと色と

「ことばと音楽はちがう?」

昨日の日経夕刊にピアニスト仲道郁代さんのエッセイが。

「音の連なりが与える感覚をことばにし、ことばのイメージを音にする。その往還をしていると、ことばの想起させるイメージと音のイメージが同化してくる。」

分かるような気がする。まだまだ拙いかもしれないが、楽譜を読んで、弾いてみて。その曲の感覚を言葉にしてみる。そうするとイメージが先鋭化する。

未だ気がついていない慕情が、やがて自分の中で秘められた想いとして認識され、恋心として内から外に迸る時に謳うソプラノのメロディー。たとえばこう感じたと言葉に置き換えたら。慕情というやらわかな感情。秘められた想いにはいきつ戻りつする惑いや迷い、高揚感に自信のなさも加わるかも。そのうち緊張感が高まり外に出ざるを得なくなる時の自分の心の中のドラマ。

その時に香る空気。湿度。乾燥。色は?♭は青系統?♯は暖色系?和声で色も変わっていく?

自分の中で曲に想起された感触に様々なラベルを貼ってみる。違ったら弾きなおして、ラベルを貼りなおして。

多分多くのプロ/アマのピアニストがしていることだろう。仲道さんのエッセイはとても分かり易く、自分なら・・・とそれぞれの工夫を言葉を使って思考に見える化してくれる。

音楽と文学と。二兎を追える方の刺激的な文章に出会えて、ラッキーな三連休最終日。

2022年5月14日土曜日

フランス音楽講座 ドビュッシー 「ノクターン」

月に一度のフランス音楽講座。

今回はドビュッシーの「ノクターン」をもっていった。まだドビュッシー若かりし時の作曲なので、長いフレーズでメロディーが歌い易い。うっとりとさせる和音は彼の音楽学校の先生でもあったフォーレのこれまた初期の作品を想起させるものだし、徐々に盛り上がってくるところは、ドビュッシーが若い頃傾倒したと言われるワーグナー的な部分も。

自分探しをしていろいろと寄り道をしてきた時期とみるか、資金繰りの為にお金を出してもらい易い音楽を作ったと考えるべきか。そのどちらでもあるのだろう。だが、どちらであってもそんなことはどうでもよく、誰にでも美しく聞こえ、自分が若い頃、「憧れ」という感情を豊かにもっていた頃を思い出す、やさしい曲であることに変わりはない。


2022年4月17日日曜日

フランス音楽講座 弾きあい会

 一回休んだフランス音楽講座。次回出席すると弾きあい会をすることになっていた。

15年?位通っているが、こんなノリで弾きあい会になったのは初めてで、しかも実行確認した翌月だ。何をもっていこう?

といっても練習している曲が少ないので選択肢はなく、今練習しているドビュッシーの夜想曲しかない。暗譜もしていない。

でも、先生が「やってみましょ」と軽くおっしゃっただけで、やってみよう!というこのノリはなんだか楽しい。結局殆どの受講生が手を挙げて参加することに。

ここまではいいが、こんな短期間で実行面はどうする?

ここでデュオ・ポッキーズの友人が運営面を指揮してくれ、一糸乱れぬことなく、実現へ!自然と受講生の中から、彼女への感謝の気持ちを表したいという声が沸き起こったほど。

弾きあい会は刺激的だった。先生に講評をいただく講座もとても貴重だけれど、コンサート形式でただ聴いてもらいたいと一心に弾いて、先生や受講生にその表現が届いたか弾いたあとの表情から自分でその講評を読み取るのも新鮮だ。

ビゼーやサン=サーンス、セヴラックの連弾。ショパンにラヴェル、ドビュッシー。普段は聞けないような曲目、自分で編曲したトリオ。誰が言った訳でもないのに。先生の薫陶か。今流行りの多様性、を絵に描いたような曲目。このままコンサートにしても、聴衆にわくわく感を提供できるだろう。

素敵な時間はあっという間。3時間ちょっとで終わり。

次回、こんな機会がある時の為、やっぱり練習しなきゃ。

2022年3月20日日曜日

フランス音楽講座 マスネ 「トッカータ」

 一か月前は何をしていただろう。

2月20日は北京五輪閉幕式だった。各競技、各国の選手に声援を送り、日本の選手の挑戦と活躍に胸躍らせた。仕事では、旧正月前後、五輪前、中国での大型投資の商談の動きが緩慢で、次のパラリンピックまでの間に動きがあることを期待していた。

実際にはロシアによるウクライナ侵攻が起こり、パラリンピックが何等か歯止めになってくれるかとの思いもむなしく現状に至っている。いつの間にかパラリンピックは終わり、この戦争の影響がニッケルやパラジウム、ヴァナジウムといった資源・原料高となって日々の仕事にダイレクトに関わってきている。この二週間は、この原料高騰のお蔭で、既契約の見直し、新規案件の急激な増(各企業が製造用の材料をおさえにかかってきている)への対応で忙殺された。

プライヴェートでは、先月は何をしていたか・・・。先月のフランス音楽講座には、マスネの「トッカータ」をもっていった。1か月で仕上げるには難しいかとも思ったが、アルペジオや音階が冬のスキーやジャンプのシュプールを想起させたので、季節にあっている気がして練習はじめた。

トッカータの語源はイタリア語の「toccare(触る)」。オルガンやチェンバロなどの鍵盤楽器に異常がないかを調べるためために、音階やアルペジオなどを弾き確かめたところからきている。今でも調律師さんが調律したあとにいろいろな音域で試し弾きをされているが、この行為そのものなのだろう。このように音を確かめる試し弾きといった目的から、時を経て即興的で連打や反復音の多い技巧的な曲に発展していった。

この曲の音階やアルペジオの左右の手、入れ替わり立ち代わり激しく弧を描く旋律が、今度は今の様々な政情や、資源・材料価格の乱高下を想起させるのだから、いやになる。音楽には何の責任もないのに。

早朝散歩。もう既に桜が咲いているとは。あれほど待ち望んでいた春がもう既にきていたことに気が付きもしていなかった。

2021年10月30日土曜日

第18回ショパン・コンクール

2位反田氏、4位小林氏と日本人が二人入賞。日本国中が速報に沸いた。

経済紙の代名詞の日経ですら、お!と思うタイトル。現地でコンクールを取材していた青柳いづみこ氏に電話インタビューし、彼女の表現を見出しに使った。

演歌のようなショパン

急なインタビューに青柳氏からそのままでてきた言葉のようだが、キャッチーなタイトルでマスコミとしては成功だったのでは。ショパン・コンクールといういかにもクラシックの世界と、日本人には親しみやすい演歌というジャンルのミスマッチが多くの人の目を奪った。きっと琴線に触れた演奏だったのだろうとの期待感で、多くの人がYOUTUBEに向かったのではないだろうか。

こんなに楽しく弾いていいんだ!

実際、青柳いづみこ氏のHPを拝見すると、右側に表示されるTwitterで、今回のコンクールの経緯が、多角的に速報されていて、臨場感いっぱい。あとでゆっくりまた戻って読ませていただくつもりだが、そのレポートの中でも、心わくわくしたのはこの記事。

>>元気が出たショパン・コンクール

>>ピアノって、こんなに楽しく弾いていいんだ!
>>審査員までもが耳を洗われた(との談話が)マルティン・ガルシア・ガルシア。


いつかはゆっくり本選のはじめからYOUTUBEで自分の耳を便りにコンテスタントの音楽をききたいものだが、今はまだなかなか時間がとれない。今回は、青柳いづみこ氏の記事に沿ってきいてみようと思う。

ところで、ショパン・コンクールの裏事情。以前テレビで、本選に残る方々に選んでもらうピアノメーカーの熾烈な戦いをレポートする番組を観て、メーカーの営業としてはとても興味をもった。一度アマチュアコンクールで「次に弾くピアノを選んでもいいですよ」と言われたことがあったのだが、限られた時間 種々のピアノを弾いて試すか、これというピアノを絞って最終判断するか迷ったものだ。人によっては至福の表情を浮かべいろいろなピアノを試弾する人も、はじめから決めたピアノで自分の曲の感触を確かめる人もいて様々だった。私は余裕なく、後者。でも今考えるといろいろなピアノを試弾しておけばよかったかも。今回の優勝者はイタリアのFazioliを使ったそうだ。netでみると、メーカー指定を途中で変えてもいいとか悪いとか、ルールに混乱があったようだ。これは、コンテスタントにとっては大きな条件変更で、ええ!!!という人もいただろう。それだけピアニストにとっては「自分」の弾き方、技量も大切だが、「ハード」とも言えるピアノや響きを司るホールも大切。ホールは変えられないから、「自分」以外はこの「ハード」の選択も深く考えるところがあったろう。何故今年はFazioliだったのか。これを探るのも今回の楽しみの一つ。






2021年9月25日土曜日

夏終わりぬ

先週はアマチュアコンクールの一次予選。毎年この機会を一つの目標に1-2曲仕上げるペースにしている。今回は一次で終わり。この機会が終わるといつも夏が終わったと心身共に感じる。

途中まではいつも通りに弾けていたのだが、思わぬところで左手の暗譜落ち。右手で繋いだものの、これでは仕方がない。杉並公会堂のベーゼンドルファーの音色が美しく、もっと弾いてみたかったものだが。

はつはつに咲きふふみつつあしびきの暴風にゆるる百日紅のはな

斎藤茂吉

2021年7月4日日曜日

久しぶりのホールでの演奏

自治体のホールでスタインウエイを演奏させてもらった。

時間は短時間だったが、思いきり弾くことができて楽しかった。

自宅はマンションなので、マンション規約よりも厳しく律した時間内で練習するようにしているが、それでもやはり遠慮して弾く。思ったように、ホールで響くような音を出す練習はできない。部分練習は消音にしているので、リアルな音でのペダルの調整もできていない。

だから、今日はホールで弾けるのだから、音が響くような腕の使い方、ホールにあった(響きすぎる?響かなすぎる?)ソフトペダルとダンパーペダルの踏み方。ペダルを外した時の生の音が乾きすぎていないか、もっと指を押し付けて圧着した感じがでた方がいいか。いろいろ試したいと思っていたのだが、そんなこと忘れて楽しんで弾いた。

これは山胞子?アイヴォリーの色が美しい。ピアノは以前は象牙でつくられていたので白鍵はこういう色だった。少し黄なりのやさしい色。

2021年6月20日日曜日

Adios Nonino

父の日に。

私が好きな曲。アルゼンチンのタンゴ作曲家 ピアソラが作った父Nonino(愛称)のための曲。 

Piazzola plays Adios Nonino

ピアソラ(1921-1992年)は1954年フランスでクラシック音楽を勉強するが、先生からあなた自身の音楽(タンゴ)に励めと言われる。その言葉を彼はどう受け取ったのだろう。クラシック音楽界ではこれ以上学んでも芽が出ないと思ったか、自分のルーツを個性にしようと腹を括ったか。翌年の1955年にはブエノスアイレス八重奏団を結成。しかしタンゴの破壊者と位置付けられ、1955年に居を移しニューヨークへ、1959年にはプエルトルコ巡業に。そのさなか父の死の報を受ける。お金もなくすぐに帰ることもできない。


父からはじめてもらったバンドネオンが彼の音楽のルーツなのだろう。肉親であり、また音楽の師でもあった父が亡くなり、その場に居合わせもできなかった。この曲は一夜にしてかきあげたという。

父の日に。この曲を毎年のように聴いている。

2021年6月19日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(1)

オリンピック予定開始日まであと一か月近くとなる今、緊急事態宣言が解かれた。世論は開催のリスクより命の安全を取りたいという声多いように思えるが。ここにきて誰が正式に開始を宣言するでもなく、開催の方向に潮目が動いていることを感じる。

海外の客と、以前は対面(出張)か電話会議だったのが、今やWEB会議が定例化している。ice breakの雑談にオリンピックの話がでることはなく、まだ海外旅行は無理だが国内旅行ができるようになり少し遅い夏休みを楽しみにしているといった欧州客が多い。一方、まだまだ大変なのがインドの客だ。需要をいち早く政府主導で戻しそのままトップランナーである中国の客と話すと、国毎の状態の違いを痛感する。

今日は朝から梅雨らしい天気。以前もっていた雨靴が、骨折以来痛くて履けず、そのままで適当にしていた(要は履きやすい撥水加工のウオーキングシューズでずぶ濡れと乾燥を繰り返していた)。しかし、とうとう思い切ってショート丈の軽量雨靴を買った。シンプルなデザインと材料で安価。でも、お蔭で雨でも歩くのが楽しくなった。水たまりも怖くない!

早速、初めての雨靴でスタスタと。バスにも乗らず30分ほど早歩きでピアノレッスンへ。3楽章の目途がたたないので1楽章の練習まで手が回らなかったが、流石にまずいでしょう。今日は1楽章をみていただく。

先生にはテンポと拍の意識をもっと研ぎ澄ますように、また、ある部分は音価一杯に密度濃い、圧のかかった音を出す必要があることの指摘を受けた。

3楽章は、ある意味速度一定のベルトコンベアーのように、速度はあまり振らさない中での音色やハーモニーによる変化できかせる難しさがあることは前に指摘をうけたとおり。1楽章はベートーヴェンによる速度の指示がかなり多くある。加えてフェルマータ(休み、停止)もあり、芯となる速度を体得しておかないと、演奏者に思いがあっても、聴衆にはずれずれの気持ち悪さが先にたつのだろう。

また、音の軽さはフランス音楽を弾きなれた癖(本当は使い分けられなければいけないのでフランス音楽のせいではなく自分のコントロールの問題)、逆に音量の大きさを意識しすぎて(フォルテ記号)真上から強く打鍵しすぎて、深い音色や圧のかかった緊張感のある音価を実現できなかったりしている。単音ではできるが、テンポの中で実現するのはまだまだ難しい。

でも、ピアノのレッスンは楽しい。気が付かなかったことを気づかせてもらったり、できなかったことが遅々としてでもできたり。仕事や人間関係ではなかなかシンプルに前進は見えないし、期待すべき対象でもないけれど、ピアノは自分が時間と労力を注げば、ある程度の前進はある。音楽の喜びと共にやり甲斐も感じられる。こういうところが音楽「療法」といったような活用の仕方に繋がっているのかもしれない。

2021年5月29日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(4)

今日はいつもの先生のレッスン。前回のフランス音楽講座での指摘を共有し、一緒に対策を検討。

通しで弾いたあと、ペダルをきちんと切ることと、フレーズの頭の部分の発音を明確にすることがメインで指摘いただき、なおしていった。どうしても当人は弾くことで手一杯で、特にペダルの濁りや音の明確さといった細かいところはおざなりになってしまう。悪いことに意識がおざなりだと、耳もそれに慣れてしまい、気が付かない。第三者の耳というのは、通常のビジネスでも大切だが、音楽でも同じだ。


今年は、紫陽花が開くのが早すぎ。もう、次々に、スタンバイ!と言っているように見える。


2021年4月17日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(1)

この曲は前にも記したが、高校二年生の時に初めて弾き、40歳を超えピアノを再開してから一度日墺アマチュアコンクール(通称アマコン)にもっていったこともある。

奥深い曲で、その時々で感じることも、弾き方も、発見もいろいろある気がする。母が特に好きな曲なので、自分の体力の衰えも考え合わせ、今年で最後になるかもしれないと再度チャンレンジすることにした。

若い時の癖や、体力がないことをカバーする為の指使いに慣れてしまっているのを、今一度見直すところから始めているので、なかなか譜読みが進まない。自分の中で弾きたい像ができていて、そしてベートーベンの弾き方(フランスもののように軽いタッチや脱力を上手く使う、ことと一線を画す)に慣れるために、3楽章から練習を始めた。

今日はピアノの先生にみていただく再チャンレンジ1回目のレッスン。時間がなく2ページしか練習していかなかったので、まずはその中で弾きにくいところはどこですか?と。物理的な難しさと、弾き方の難しさと分けて伝えた上で、弾き方が難しい冒頭の二段をみていただくことに。アーフタクトではじまりスタカートで切れる一節。左は一音目ではなく二音目が延びる変則的な伴奏。16分休符をはさみ追われるように掛け合う右と左。たたみかける3回の繰り返しのあとに繰り出される和声の変化。どうすればこれらの特徴が示すストーリーを語れるか。結局この二段をいろいろ先生と対話して一時間のレッスンが時間超過で終わった。

自分よりも知識も表現手法の経験も優れている人に、強制されるでもなく、付き従う訳でもなく、自由に対話しながら曲を一緒に仕上げていくという時間は素晴らしい。子供の時から、ピアノの先生には良い先生にあたり触発されてきた。今や先生の年齢の遥か上になってしまったので先生の言葉も年齢をいくばくか加味して丁寧に話していただくが、それでも音楽に関しての知見は先生の方が多く、優れていて、いろいろな見方や知識を教えていただくと、目から鱗が落ちたり、一緒に創っていく喜びに触れたり。音楽の楽しみの大きなひとつだ。


2021年4月11日日曜日

ショパン ワルツ 13番 19番

フランス音楽講座にショパンのワルツ2曲で臨んだ。

舞踏系は苦手意識あるが、小曲で、技術的に時間が少なくともある程度に仕上げて講座にもっていけるように・・・と効率指向の選曲。

13番はショパンが若い頃の作品。まだパリに行く前、ポーランド時代の作曲だ。若さの溌剌とした勢いもあるが、(A)二声のメロディ、(B)舞踏のリズムが明確な華やかさ、(Trio)ヴァイオリンとチェロの二重奏曲、と言えるようなそれぞれ特徴的なワルツで構成されている。優美なメロディとめりはりの効いた場面転換を思わせる進行は、パリのサロンで十分に聴衆を魅了しただろう。

対照的に、19番はショパンが亡くなった後に発行された遺作。書かれた時期も晩年とされていて、素朴なポーランドの踊りらしいメロディが繰り返されるシンプルなつくりだ。あまりの簡明さ故か、華やかさが少ないせいか、弾かれる機会が他のワルツに比べて少ないように見受けられるが、このややぶっきらぼうとも言える素朴さは、晩年で修正する気力もなかったのか、はたまたこれが彼の脳裏を駆け巡っていた旋律で、複雑に書き直す意味を感じなかったのか。いづれいせよ、遺作という言葉がもつプライヴェートな感触を強く受ける。一度聴いたら忘れられない、つい口づさんでしまうメロディ。音域が非常に広く、舞台の端から端まで使った踊りのような、二次元ではなく空間を感じさせるつくり。13番と対比させるとやはり年月で培った巧みさが、意識せずに土台にされている感を受ける。

若書きの溌剌さも、晩年の、何か結集したかのような、凝縮したような簡明さも、共に心に残るショパンのワルツだ。



2021年3月14日日曜日

ロマンティックなワルツ

 今日はフランス音楽講座を受講してきた。

ドビュッシーの「ロマンティックなワルツ」をみていただいた。

若書きの曲と言われある意味成熟していないというトーンで語られるが、私は好きだ。分かりやすいメロディーながら、和声はもう既にドビュッシーの特徴がでていて、くるくる変わる明暗はまるで舞台。ドラマや映画音楽のようだ。

個人的には、この曲ではその舞台音楽のような効果を出したいと思って練習。盛り上がってクレッシェンドしていたのに急に(subit)ピアノに落とす、歌っていたメロディが突然途切れて「天女の羽衣」のようなアルペジオがかかったり。急な音の切り替えは、頭の中で鳴る音楽を切り替えと共に、実際に弾く指を含む身体の即座のコントロールが必要。「車は急には止まれない」と同じで速度や遠心力がかかった音楽を急に止めたり変えるのは難しいのだ。そのかわり、上手くできたら効果は抜群。

講座では、この曲は、「ロドリーグとシメーヌ」(ドビュッシーの未完のオペラ)のモチーフが使われていると教えていただいた。

このオペラの話自体は、分かり易くたとえれば、フランス版ロミオとジュリエット的な物語である。ただ、少し最後の結末が違う。ロメオもといロドリーグは、ジュリエットもといシメーヌの父を刺殺。シメーヌは王に公平な裁きを、裁判を求めるが、王はロドリーグが居ない為、急がずに去る。そこにロドリーグが戻ってきて、父を刺し殺した剣で自分を殺してくれとシメーヌに嘆願するが、まだロドリーグを愛しているシメーヌは決断せずに去ってしまう。ロドリーグは狂乱するも家族に諫められ、シメーヌへの愛とともに戦場へ向かう。同じストーリー設定なのに結末が違うだけで印象が変わる。結構、この現実路線がフランスらしい?と面白い。


今は盛りと咲く家の近くの雪柳(?)。清純と表現されるジュリエットやシメーヌの印象さながら。誰も歩いていない大雪のあとのように、目が痛くなるほど真っ白で。眩しくて、そして美しい。

2020年11月23日月曜日

調律

 絶対音感が数少ない自慢できる能力だったのに、突発性難聴を患ってから、微妙に、そして半音、今は全音ずれて聞こえるようになった。以前は調律があっていないと気持ち悪くなったものだが、今は鈍感になったのか耳が悪いのか、気が付かないことが多くなった。

家族に「音が悪い」と言われてはじめて気が付き、調律をお願いした。前回から1年半経っていた。20年近くお願いしている調律師さんは元気いっぱいできてくれて安心した。だが、彼女曰く、コロナ禍で来てほしくないという人が多く、仕事は激減したという。ワクチンできるまで調音しないのでしょうかねえ・・・と笑っていたが、本心は笑うどころではないのだろう。

今年は毎年うけているアマチュアコンクールも実行されるかわからず、また、7月から仕事が純増して練習できなかったのですっかり忘れていたが、夏にやはり実行しますと連絡がきた。悩んだが、その時自分が弾きたくて練習していた曲で出ようと思い応募した。コンクール用の曲と思って選曲しなかったのは初めでだ。技術的にそれほど難しくはないショパン ノクターン第19番、プーランク 15の即興曲第12番等を弾くことにした。

杉並公会堂のベーゼンドルファー、紀尾井ホールのスタインウエイ。私が弾きたかったノクターンはピアノに助けられて美しい音だった(自分の技量は別)。一次は淡々と弾いてその音に驚きもう一度ベーゼンで弾きたいと願った。二次は緊張して音の美しさに気づく余裕がなかった。本選では冒頭に弾いた前奏曲で暗譜落ちをしたので、入選は望めないと欲を捨て去った途端、ピアノの音がちゃんと聞こえてきた。メロディーを歌うこと。本当はヴァイオリンのようにずっと繋げたいけれどそんなにピアノだから音がのびない。人が歌うように、息が続く限りはのばして、息つぎの時に間が空くように。そして、美しい単旋律は、聞こえたらそれだけで耳をひきつけられるような。

自分の理想と自分の技量は違ったけれど、でも今年は終わったあと、好きな曲を弾けた満足感が残った。


友人にいただいた花束。もう二か月近く美しい造形を魅せてくれている。調律したてのピアノの上で、喜んでくれているような。



2020年6月30日火曜日

水無月の終わりに

早いもので、今日で2020年の前半もおしまい。

皆さんにも、いろいろあった半年だったろう。そして私もまた。

今日は午後から急に激しい雨風が吹きつけ。今月中にやろうと思っていてできていなかった仕事を昼休みに急いでしたばかりだったのに。伸びきったレモンユーカリの枝を新芽を中心に切り、それを土に植え替える作業。もしかしたら強風に飛んでいってしまったかも。

水無月の限りを風の吹く夜かな
蘭更 「半化坊句集」


ローランサンの絵のような色合い。夢みるような紫陽花。今宵、散ってしまうだろうか。

2020年6月14日日曜日

その音を その時に その場で 共に経験すること

今日は私にとっては4ヶ月ぶりの、対面でのフランス音楽講座。

先生から今迄の活動や、欠席の方々の消息などをきいて一息ついての開始。

オンラインはオンラインの良さがあるものの、対面はやはり格別。それぞれのメリットを感じつつも、やはり音楽は、その音を その時に その場で 共に経験することの素晴らしさを再確認。

素晴らしいピアニストである先生や、それぞれ音楽活動をされている受講生を前に弾く瞬間の、背筋が凍るような、心臓がバクバクする緊張感。それでも素晴らしい聴衆が前に居るという興奮。自分の準備、技量を踏まえた客観的、プラグマティックな最後の振り返り。そして弾き始めてしまえば、その曲に、そして曲への思いに捉われてしまう。


前回のオンラインでは「弾き方」を主に言葉で、表現に工夫を凝らしながら説明された先生は、今回は対面を意識されたのか「音」にこだわられた。何度か弾きなおしを言われ、そのたびの自分の中での評価、先生の評価、先生の演奏、自分の演奏。音、音、音。

メロディーの中の小さな盛り上がりの音。に過ぎないといってしまえばそれだけだが、次に進む時の感情を示す音。ためらいから思い移るのか、メロディーとして確固として歌うのか。気持ちは決まっても、自分の技量がその音を出せない。5回ほど繰り返して弾いてみる。一つとして同じ音はなく、先生が満足する音はない。

今日弾いた曲はショパンのノクターン 遺作ホ短調。ネットで、17歳の時の曲だという研究もある。17歳でどうしてこのような曲を創り出せるのだろう。何を思ってその曲を記したのだろう。

写真の植物のように柔らかで、優美な弧を描き、わかわかしく、そして感情が露わな気がする。