2021年8月29日日曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(3)(4)

豪雨が日本列島を何度も襲い、甚大な被害が出る一方、東京はコロナの一日の新規感染者が5000人を超える日もでた。そんな中、パラリンピックも始まった。

先週一日夏休みをとったのに、7月から始まった大型商談が大詰めで、結局終日客と社内の調整で終始してしまった。どうにか今週、内示を受け、まだまだ課題もあるがほっとしたところ。

ピアノの方は、練習不足の1楽章が手に入ってくるように、曲想が粗くなるのを覚悟で、メトロノームで速度を上げて通しで弾く回数を稼ぐことにした。千本ノックまではいかないが100本目指している。殆ど体育系。

実は体育系と芸術系は類似点が多いと思っている。地道な練習なくして自由度があがらないし、ある程度身体が動くようになったら、いかに人より上手くなるか。「上手く」の定義、優先順位、戦略を描いて練習するかで差がでてくる。少なくとも優秀な人はそうだと想像している。

自分のピアノの練習に戻ると、冒頭の目指せ100本!の甲斐あって少し早く弾けるようになった。テンポの自由度が増したし、ずっと力を入れていられないので力が抜けるようになってきたのは良かったこと。一方、最初に覚悟した通り、速さに力点を置いたので、曲想が粗くなってしまった。

厳しい批評眼(耳)をもつ母からは、冒頭がきれいに流れるようになってほっとしたが、陰影がない演奏ね、とのこと。耳が痛い。

ピアノレッスンでは、先週はフランス音楽講座での指摘をどう具体化するか、今週は母の批評を受けてどう陰影をつけるか試行錯誤した。どうしてそう言われるのか。どういう風にひけばいいか。対策は?

自分がやりたいと思うことを訥々と話し、先生が引き出しを探っていくつかの選択肢を提案してくださる。刺激を受けて、もっとやりたいことが広がる。これは楽しい(自分が実際できるかどうかは別として・・・)。

「陰影」は、そうやって考えて表現を考えていく部分があるが、その根幹には自分の感情がないと表現もできない。人生経験の多寡もあるかもしれないが、それ以上に感受性の敏感さが必要に思う。私自身は、その感受性は、ビジネスモードで感情を極力排している時にはなかなかでない。モードの切り替えは、言うは易し、行うは難い。


九州の親戚から母にレッドオニオンをいただいた。豪雨の前の贈り物。お酢に漬けて。スライスしてサンドウイッチに。食欲がなかった母もパリパリといただいた。自然の力は本当に有難い。

2021年8月9日月曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(2) 3楽章(7) フランス音楽講座

オリンピックが終わった。その間、東京の新規感染者は4000人を超えた。これからパラリンピック。まだまだ気が抜けない。今週は例年であればお盆の帰省時だ。昨年は自己抑制して巣ごもりする人が多かったが、報道では今年は里帰りする人も昨年より増えるようで、人流はコントロールが難しいステージに来てしまっているようだ。

フランス音楽講座を先月に3楽章を再度、今月は1楽章と受講してきた。フランス音楽講座でドイツ音楽をみていただくのは肩身が狭いが、先生のご指摘はフランス音楽にとどまらず的確なので、申し訳なく思いながらもっていった。

3楽章は漸く手になじむようになってきた感があるものの、先生からは今一度和声の流れを意識して表現すること。冒頭の右手と左手が交互に流れるような受け渡しをする形は、ややもすると疾走して「綺麗」で終わってしまう危険がある部分だが、右・左で和音におさえてみることで、ストーリーが浮かび上がってくることを確かめた。

今月は初めて1楽章をもっていった。3楽章では文献を探してまでスタッカートや装飾の解釈について考える機会を与えられたが、今回は曲想や楽譜の解釈については特にご指摘はなく、音が濁らないようペダルの踏みかえやフレーズの終わり迄細心の注意を払うことを求められた。時間がない中で気になる部分を注意した、ということなのか、それとも歌い方は弾き手に任されていると意識的に指摘されなかったのか。1楽章はレスタティーヴォ ソナタとの別名もあるように、途中(再現部)にラルゴでレスタティーヴォ(朗唱)が挿入されている。テンペスト(嵐)をずっと奏でていたのに、そこだけ雲をつきぬけて異次元にいってしまったかのような不穏な部分だ。1楽章はテンポも変わり、劇が暗転するかのように背景もがらっと変わる。ストーリーの描き方はピアニストのイマジネーションに委ねられている感が強い。