2019年6月15日土曜日

荏原スクエア/スタインウエイ 中野/ベーゼンドルファー

ゴールデンウイーク前からの大きな商談二件が決まらず、心身ともに休まらないままきている。 頭がなかなか仕事モードから音楽に切り替らない。

練習量もとみに少なく、コンクールで一曲目に弾く予定のフォーレの舟歌12番は漸く譜読みが終わった状態。 今月中の暗譜は絶望的。

 こんな状態とは本人も家族も想定しておらず、荏原スクエアのスタインウエイを弾く機会を家族が抽選申し込みしていてくれて、また中野ベーゼンドルファー社のスタジオ借りを例年のように一度だけだが申し込んでおり、まだそんな状態ではないのだが・・・会社帰りに行ってきた。

こんな特別な機会は私には望めない。仕事関係者には時間外とはいえ1時間携帯をオフにすると伝え。 荏原スクエアのホールは初めて弾いたが、響きが美しい。

華やかなスタインウエイの音色が、放物線を描いて放たれていくようだ。スタインウエイも、音も鍵盤も軽すぎず、重すぎず。ピアノ、ホールともども、ピアニストを助けてくれるようだ。 

しかし、はじめ弾いた時は、家で弾いているように、音が閉じていた。

防音室などないので消音で技術的な練習、土日に普通に弾くが流石に窓も閉めて気を使う。響かせることを意識することはなく、上手く(間違いなく・・・私の苦手な)、歌えることを目標に練習する訳で、思いっきり響かせる機会はまずない。冒頭部分と、響かせたい部分だけ取り出して弾いてみる。だが音はポトリと落ちる。時間が勿体ないが、冒頭部分を右手、左手で分けて弾いてみる。それでもポトリ。目を瞑って弾く。尚更ボトリと湿り気を帯びて落ちた気がした。

ポーンッ と放物線を描く第一音が欲しい。腕を使って。響くが音がキツい。指の腹を使って、腕を使って・・・。 

冒頭の部分で響きを確かめていたらそれだけで30分経っていた。慌てて通しで弾いて録音をし、あとで確かめることに。 

次は水の戯れ。美しい音がするに違いないと思って弾いたのに、こちらもマンション練習の音が。フォーレの柔らかな陰影に富んだ音とまた違う、硬質な、煌びやかな音が欲しいのに。

だがこちらは冒頭練習はあきらめて、中間部のフォルテ部分を鳴らす練習をした。

ホールのあの隅まで音が届いて欲しい。左手で、腕を使って、アーチを描いてあの隅へ音が届くように。

結局隅まではまだ届かなかった気がするが、腕の力を抜いて弾けた時、何度か音がホールに響いた。

あの感覚を忘れずにいられるだろうか。 

中野のベーゼンドルファー社のピアノは、初めてベーゼンドルファーを弾いた時の混乱と感動を、毎回思い出させてくれる。美しく豊かな音。これぞ欧州(と括ってしまってはいけないのだが)、墺国の音なのだろう。ドビュッシーの「雨の庭」を初めてベーゼンドルファーで一頁だけ弾き、その美しさに感動した。コンクール本番の場だったが、上手く弾きたいという自意識を忘れさせる程の音の美しさだった。 

ところが、今回、その美しさを感じられなかった。

自分の弾き方がこのピアノを弾く迄になってなかったのだろう。また、仕事から音楽への集中に切り替えも上手くできていなかったこともあるだろう。

ピアノは嘘をつかない。ベーゼンドルファーで弾いたら、あの雨の庭の感動が再び味わえる期待を勝手にしてきた訳だが、思いいれをもって練習し、その瞬間 その音楽のことだけを考えないとピアノは応えてくれない。

ここでも同じように、シンプルなフレーズを何度も美しい音と思えるまで練習した。全くもって技術的には進歩なし。自分が音楽に没頭すること。その大切さを、あらためて教えてもらった(ああ、勿体ない、、、もっともっと違う練習に使えたはずなのに・・・)。 

どのピアノもそれぞれに働きがあり、意義があり、音楽を奏でる素晴らしい楽器だ。だが、今回「非日常」のピアノだからこそ、強制的につきつけられて向き合うことができた課題がある。機会に感謝。

2019年6月2日日曜日

紫花

紫花の咲く我が家のベランダ庭園。 生命の象徴のように葉も花も咲き誇る。とうとう6月。初夏だ。 この花は、昨年骨折中に叔母が庭からひと房もって見舞いにきてくれた。水耕栽培して鉢に移した。 今春、一輪、二輪、と咲くのを愛でているうちにあっという間に咲き始めた。
週末は、連弾の練習、ソロの練習、従弟家族と妹来訪、とプライヴェート楽しい時間だった。