2018年6月29日金曜日

そうび しょうび メルセデスコルダナ

6月もあと僅か。2月に骨折、4月に松葉杖出勤、やっと歩けるようになり外を眺める余裕ができてきたら、梅雨と台風があわせきたような天気。


6月の誕生花といえばこの薔薇。「そうび」とも「しょうび」とも読み、女性の名前として名づけられることもある。「ばら」は和名として「いばら」から転じた。中国の雲南省からミャンマーにかけてが発祥の地。多くの種類がある中で我が家のものはメルセデスコルダナ。

学生時代、リルケを読んだ時期があった。墓碑銘に刻まれているという詩。意味も分からず気になって短いこともあって覚えてしまった。どんな時に心に浮かんだ言葉なのだろうか。

薔薇よ おお純粋な矛盾 瞼のこんなたくさんの重なりのしたで だれの眠りでもないという よろこび(清岡卓行訳)

2018年6月28日木曜日

天空劇場 ベヒシュタイン

週末に天空劇場のベヒシュタインを弾く機会に恵まれた。通常であればアマチュアには手が届かないホールなのでとても楽しみにしていた。友人との連弾とソロ2曲で参加した。

連弾はバレエ曲「コッペリア」から2曲。とても楽しかったが、Secondの私の譜めくりが失敗し暫し迷走。Firstを弾く友人に迷惑を・・・。「本番前の肝試し」と慰めていただいてしまった。次回はリベンジだ。

ソロは1年振りの舞台であがってしまった。幼い頃はあがることが殆どなかったのに大人になっての再出発では自分の練習不足からくる自信のなさが「あがり」の原因のようで、殆どいつも起こる。昔はものを思わざりけり。そんな自分でもピアノの音の美しさは楽しむことができた。華やかなスタインウエイ、深い響きのベーゼンドルファとは全く別の魅力がある。バランスが良く、ホールのせいか響きが気持ちよく通る(自分の技術は別として)。音色を何かにたとえればシルク。キラキラピカピカする訳ではないが、上質な光沢がひとめで他の素材と一線を画するのと似ている。

ベヒシュタインは1853年ベルリンで創業、多くの作曲家、ピアニストを喜ばせたが、第二次世界大戦で工場を破壊され、またナチスに「第三帝国のピアノ」と位置づけられた為、戦後もその記憶に苦しめられたという。1962年にアメリカ企業となり、1986年にまたドイツに帰した。会社としては100年余の間に大きな浮沈を経験した。強い弦のテンションとアグラフ(弦の留め金)の使用により、弦を鉄骨に触れさせず響きの良さを追求する設計思想と言われるが、その思想は政治や経営、製造する個々人は変われど、アイデンティティとして引き継いできたものなのだろう。


ホールの扉をあけて一歩踏み出ると、そこは21階の空に浮かぶ空間。雨が止んでふっと陽射しが降り注いだ。ガラス越しの空と、鏡面ステンレスでメタリックに映る空が。眼にも耳にも美しさ染み入る天空劇場だった。


2018年6月17日日曜日

花開く百合 クープラン

父の日に父が好きなピンクの花。

花はどの花も蕾がつき花開く時は心躍るものだが、百合の花が開く時はもっと違う感覚を抱く。まるで重く光沢のあるサテンのドレスを手でゆっくりと捌き前に滑るように歩く様を思い浮かべる。息をとめてじっと見惚れるしかない。


フランスの作曲家クープランのクラヴサン曲集第3巻に「花開く百合」がある。ブルボン王朝を象る百合とかけたタイトルだという(船山信子氏)。クラヴサンがもともとの楽器ではあるが、ピアノで聴くのも繊細な美しさが際立ち別の曲のように違う個性を楽しむことができる。特に好きなピアノでの演奏は青柳いずみこ先生の「雅なる宴」に収録されている。クープランとドビュッシーを「フェット・ギャラント 雅宴画」に結び付けてプロミングが見事な企画で堪能できる。


「雅なる宴・・・ドビュッシー、クープラン作品集」 青柳いづみこ ナミ・レコード




2018年6月16日土曜日

水の器の大きな葉 「七変化」 「八仙花」

学名 はHydrangea(水の器) macrophylla(大きな葉)、花言葉は「家族の結びつき」「辛抱づよい愛」。色が変わることから「七変化」 「八仙花」とも言う。紫陽花だ。原種は日本。

ふとマンションから外に出ようとしたらいつの間にか咲き始めていた。青いガクの蕾?が赤ちゃんの拳のように空に向けられている。その色は梅雨の今、目に楽しい。しかし、季語としては夏だという。いろいろな句がありそうだが、自分にとってすぐ思い浮かべる言葉は学校で暗誦させられた詩だ。

母よ
淡くかなしきもものふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり

三好達治 「乳母車」

音楽から沈黙へ 「フォーレ 言葉では言い表しえないもの・・・」 ジャンケレヴィッチ

「フォーレの音楽には、ベルグソンを強く感じさせるような傾向が存在する。それは継続した流れ、つまり流動し、経過してゆく魅力のことであり、流麗さともいえるものなのだ」。

「ガブリエル・フォーレとその歌曲(メロティー)」を論じることから本書は始まる。詩と音楽の「結ばれあった特別な瞬間」・・・たとえば「ミニヨン(ゲーテ)」がシューマン、リスト、ヴォルフに霊感を与えたように、ヴェルレーヌのいくつかの詩はほぼ同じ頃にドビュッシーとフォーレの音楽を誘い出している・・・もっとも類似はそこで終わる。ガブリエル・フォーレの唄は<リート>ではない・・・フランスの歌曲は・・・「ただ自由な海と自由な天とあるのみ」・・・あらゆる種類の例をみない音階と洗練された音の集積を試みるのに力を貸しているのである。(第I部より)

冒頭に歌曲をもってきたのは彼の像を解明し易くしていると思った。弾いていると、フォーレはピアノ曲でも、「歌」がその本質だと感じる。どんなに楽譜どおり弾こうとも、その曲に流れる「歌」をかな奏でないと琴線に触れず、CMソングのように流れさって過ぎていく。マルグリット・ロンが記していたように、リズムの統一性が、ややもすれば繰り返しの冗漫さに変じる危険性を孕み、歌うことを難しくする。

「フォーレはたちどころにフォーレその人となった・・・フォーレとラヴェルはいうなれば、第一歩から自分自身であり得たのだが、ドビュッシーは雑多な影響物ととっつきやすい魅力的な提案のあれこれに囲まれて、長いこと自己を模索し、手探りで進んでいた。」(第I部 第1章 1890年以前より)

サン=サーンスからフォーレへ、そしてフォーレからラヴェルへ。それぞれ曲調は全く異なるがこの師弟達は、若いときから自分のスタイルを確固としてもっていたところが奇妙に似ているように思えた。



2018年6月15日金曜日

「回想のフォーレ」 マルグリット・ロン

ピアニストのマルグリット・ロンがフォーレとの思い出を語っている。初めて数年前に読んだ時には、フォーレ伝なのか、音楽論なのか、自伝なのかよくわからず、随分私的な思いいれが入っていると感じ読みにくかった。しかし今回、要素毎に読み分ければ興味深いと思い直した。

フォーレの人物像の一面:
オルガニストとしての経歴の長さ、サンーサーンスとの友情、パリ音楽院の院長として新風を吹き込んだ手腕、ラヴェル、デュカス、シュミットといった教え子達、ロン夫妻との深い交友と別れ(この本だけでは何が原因だったかわからないのだが)、耳が聴こえなくなってからの苦しみが描かれている。活き活きとした場面もあり思わずひきこまれる。たとえばこんな記述。当時の教室の雰囲気が目に浮かぶようだ。誰か映画にしてくれないだろうか?

フォーレは45分遅れて到着すると、煙草をふかし、座ると、すぐに夢想から我に返ってこう言った・・・。「ラヴェル、それでは君の<水の戯れ>を弾いてごらん」。ラヴェルがピアノの前に座り、最後の音を打ち終わると、先生はちょっと考えていて、それから夢想へと戻っていった。少しして、先生は時計を見た。レッスンはそれ以上進むことなく、終了した。」エネスコが賛美と感謝の念をこめて、こう付け加えていることも事実です。「しかしこの日、私たちは大きく進歩した。」 ~フォーレとその人生~ 

フォーレの音楽の優れた点:
3つの統一性による規律が尊重されている・・・それは本物の古典主義からくるとくちょうのひとつ・・・最初に様式(スタイル)、次にリズム、最後に調性 この3つの統一性。

確かに、この3点は優れているのかもしれないが、その統一性或いは執拗さが、工夫しないと退屈な繰り返しに反転してしまう弾く者にとっては両刃の剣だ。

フォーレが大切にしたもの:
フォーレが、気に入って「日に6回」は繰り返していた言葉あります。それは「ニュアンスをこめて。でも動きは変えないで。」こんな言葉もありました。「僕たちにとって、バス声部は重要だ。」バスへの愛着、私はこれをフォーレから学びました。・・・ フォーレは短くて息をのむような「クレッシェンド」や「ディミヌエンド」を好んでいました。それはちょうど、トスカニーニが驚異的なダイナミックスによって最高に大きな効果を引き出すやり方と似ていました。 ~魔法の輪 作品の統一性~

確かに、今弾いている舟唄1番にも、一小節でfからpへ急降下する部分、最後の盛り上がり部分メロティーに対をなす美しいバスなどすぐに思い浮かぶ。若い時の作品から彼の特徴がちりばめられていることが分かる。フォーレが大切にした部分を意識して表現することで「フォーレらしさ」にく一歩近づけることができればと願う。

「回想のフォーレ ピアノ曲をめぐって」 Ai Piano avec Gabriel Faure 音楽の友社

2018年6月12日火曜日

不思議な訪問者

いただいた花束に埋め草の観葉植物あり。これも年末から水栽培していたが長寿に敬意を払い鉢植えに昇格させた。100円均一店の二種の土を混合していれ数週間。昨日突然花開いた、いやキノコ開きとなった。水栽培の時も鉢植えになってもずっと家に置いていたのに、何故か観葉植物と関係ないキノコが凛と佇んでいる。100均土壌の為せる業か。

一晩あけたらキノコの畑となっていたらどうしよう?と思っていたら、なんと一日で消えてしまった。居なくなってみれば夢か現か幻か。寂しい気がするから不思議なもの。

2018年6月1日金曜日

梔子 ジャスミンのような 

学名は Gardenia jasminoides 「ジャスミンのような」。違う花の「もどき」と学名がつくというのもいかがなものかと思うが。その実は料理の色づけに。黄色でサフランのような色となるという。精神安定剤や胃腸炎の薬効も。花言葉は「幸せを運ぶ」「私は幸せ」。

アカネ科クチナシ属というと、ああ「くちなし」とわかるだろう。名の謂れは、果実が熟しても割れない、クチナワ(ヘビ)ナシ(果実のなる木)から、ヘビ位しか食べない、という意味とも言われる。私はずっと口で説明しなくても香りをかげば一発で分かるから「口無し」からくると思っていた。将棋盤の足がこの花を象っているのは「第三者は問答無用=口出し無用」という意味がこめられているとも言うので強ち遠い思い込みではないと思っている。

妹からのプレゼントで、母の空中庭園に加わった。口がきけなくともこのかぐわしい香りだけで花言葉どおり朝から幸せを運んでくる。


おもふ事 いはねば知らじ 口なしの 花のいろよき もとのこころも 樋口一葉