ラベル 音楽、言の葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 音楽、言の葉 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年4月8日土曜日

風いで来りけり

というよりも、春の嵐が続いている。

激しい風に、雨に、気圧の変化も激しく体調崩している方も多いのでは。この時期、正直 鉄の心臓の自分はさておき、気候が家族の体調に与える影響は大きい。

出張、外出、出社が急に増え、コロナ下のように家族の健康を見守る時間がとれず心配な時間が増えた。コロナ収束の合図と共に経済活動は戻ってきているのだろう。在庫だの特殊要因を見誤らないようにしつつも方向としては良い方向。だがプライヴェートではメリット、デメリットあり、なかなか単一の評価には落ち着かない。

デュオポッキーズの友人と、連弾練習。フランス音楽講座の一年の総集編、弾き合い会目指してラストスパート。またスポコン練習と、その後地元でナポリ風ピッツアとワインで景気づけ。練習を重ねるごとに、お互いにやりたいことが増え、音の対話も増え、曲にストーリーができてくる。こうやって一緒に曲を仕上げていくというのは、とても楽しい。贅沢な時間だ。

友人宅に咲いていた小手毬をいただいた。

小でまりの花に風いで来りけり 久保田万太郎

2023年3月5日日曜日

雛祭 春を待ちながら 連弾

雛祭の日。DUOポッキーズの友人と中田喜直の「日本の四季」の連弾練習。

1曲目の「春がきて、桜が咲いて」と4曲目の「さわやかな夏とむし暑い夏と」を再度さらった。ここ暫く「初春」をいきなり通り越して春爛漫な暖かさの日々も続き、本物の春を待ち望む気持ち募り、特にこの1曲目を弾くと心が軽く浮き上がるようだ。

とはいえ、この曲は「春」といって思い浮かぶ柔らかさや暖かさは描写されておらず、冒頭からメゾフォルテで始まり、桜が風に舞う景色はもの哀しい短調の和音を、しかもスタッカートで弾くように指示されている。全体的に日本人が思う春よりも楽譜上は強い書き方がされている。一方で冒頭の哀しい曲想は「桜横丁」という中田喜直の声楽曲からきており、透き通るような女性ソプラノで失恋を思わせる歌詞を謳った珠玉の小曲。

「想い出す 恋の昨日 君はこうここにいないと・・・春の宵 さくらが咲くと 花ばかり さくら横ちょう」

ピアノ連弾曲としては、やや強めの指示の楽譜に従うか、儚い恋への思いに曲調に合わせるか、いまひとつどのように弾いたらよいか迷う曲だ。4月の弾きあい会まではもう少し時間があるので二人で話し合ってつくっていきたい。

恒例のスポコン練習が終わると楽しい飲み会。友人には手伝いもしないで幾品か手土産をもっていくだけで申し訳ないのだが、また心に残るおもてなしをいただいた。

たてていただいた御茶(彼女は御茶の先生でもある)と湯島の梅の和菓子。ロゼのスパークリングで乾杯したあとは、緑濃いアスパラガスのお浸し。葡萄色のホタルイカ。黄金に光る鰆の西京焼きに薄紅色のスモークサーモン。蛤の潮汁に春の色とりどりの散らし寿司。そう、今日は雛祭。懐石料理のような逸品ばかり。

目を転じれば、彼女のお母様がつくられた雛飾りが。


この雛飾り三段全てで手のひらよりも小さいのに。人形のそれぞれの表情の活き活きと個性的なこと。愛らしいフォルム。美しい色彩。

母の雛 最も古りて 清くあり 原石鼎

2023年2月5日日曜日

連弾練習 中田喜直 「日本の四季」から

4月に日本の作曲家の引き合い会に参加することに。

DUOポッキーズの友人と相談し、連弾とソロを弾くことにした。連弾は中田喜直の「日本の四季」に収められている「春がきて、桜が咲いて」「さわやかな夏とむし暑い夏と」の二曲を予定。まだソロ曲は決めていないが、忙しい彼女と練習できる機会が殆どないので、まずは連弾の練習を優先。金曜夜に彼女の家で特訓。

一曲目はいきなり上手く合い、余裕の笑みもこぼれた。しかし問題は二曲目。いきなり彼女と私が練習してきた「夏」の曲が異なることが判明。私は2曲目の「五月晴れと富士山」を、彼女は4曲目の「さわやかな夏とむし暑い夏と」と思っていたのだ。「春と夏ね」で分かった気がしていたのがいけなかった。もっといえば春の次は夏だろうと安易に2曲目と疑わなかった私が悪かった・・・。ということで難しい4曲目だが初見で挑戦。案の定、雪崩をうって瓦解してしまった。

気を取り直してつきあっていただき、二時間の特訓が終わる頃にはどうにか目途がつき、ほっと一安心した。

終わればあとは新年会だ!とばかり、また料理上手な彼女のお手製の品々をご馳走に。節分に因み色鮮やかな旬の刺身たっぷりの手巻き寿司。やさしい味付けの鶏と大根の煮物。春を先取りしたようなみずみずしい水菜とじゃこのたっぷりサラダ。仕事の話を聞いていただいたり、彼女の博士論文の進捗をお聞きしたり。

なかでも盛り上がった話題は子供の頃に読んだ本に表現されていた料理へのオマージュ。メアリー・ポピンズの木苺ジャムとマフィン、秘密の花園のヨークシャー・プディングやカラント入りバンズ。大きくなって実際に食べてみて想像していたイメージと違っていた菓子、やっぱり美味しかった料理。彼女の読書量は勿論、どの本に書かれていたこの料理、と正確な記憶力にも脱帽。


話ながら台所の上の棚からひょいと持ってきて見せてくれたのがこの本。「秘密の花園のクックブック」。Amy Cotler著作 Festrival社 写真はAmazonより拝借。
私は岩波文庫で読んだので英語版を見るのははじめてだったが、表紙も中の料理本の挿絵も懐かしい感じがして欲しくなってしまった。食事をご一緒するたびに、都度違う共通の興味が見つかることってなかなかないこと。とても嬉しい。



2021年12月26日日曜日

花の時間

中学・高校生時代はフランス文学をよく読んだ。

中学生の想像力ではよくわからないながら、それでも実年齢よりも大人になりたくて、ただ読んだ。マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」、ギュスターヴ・フローベールの「ボヴァリー夫人」、ロマン・ロラン「魅せられたる魂」。

高校になってサン=テグジュペリの「夜間飛行」「人間の土地」の透徹した個人主義の感触に惹かれ、何度も繰り返し読んだ。夢中になったのは、堀口大学の名訳も相俟っていたかもしれない。「愛するとはみつめあうことではなく一緒に同じ方向を見ること」。これもよく引用される有名な言葉だ。あの頃最先端の職業であったパイロットで、44歳で二次大戦中に地中海上空で消息を絶ったという人生も、ある意味謎めいていて好奇心を掻き立てられた。

という印象だったが、今般出版された青柳いづみこ氏の「花を聴く 花を読む」には、サン=テグジュペリが実は彼の作品「星の王子様」にでてくる我儘な「薔薇」に似たところがあるという記述があり驚いた。彼の「薔薇」に擬せられた妻コンスエンロが書いた「バラの回想」を読むとそういう一面が見えてきたそうだ。

冒頭の「薔薇」の章から一気に惹き込まれ、勿体ないことにその日のうちに読破してしまった。ちなみに、「薔薇」をタイトルに関する曲は結構少ないそう。好きな作曲家であるヴィラ=ロボスが「カーネーションはバラと喧嘩した」という面白い曲があるそうなので早速きいてみよう。一気に読み終わったが、これから本に記された「花」の音楽をネットで探して聴きながら読むつもり。知らない知識、聴いたことのない曲が一杯詰まった、ひと足早い「音楽の福袋」だ。(写真はAMAZONより借用)

同時に刊行されたCDが、こちら、「花のアルバム」。本にでてくる曲も入っている。フランス音楽の大家なので、クープランの「ケシ」、タイユフェールの「フランスの花々」が入っているのは想像していた路線だが、八村義夫の「彼岸花の幻想」のように日本人作曲家の手による4曲も全て初めて聴く曲で興味深い。

多彩なタッチで、花の質感や、時には香りのような空気感まで表現できるピアニストだからこその選曲だ。


写真はHMVより借用。画は本、CD共に渡邊未帆氏。

2021年12月4日土曜日

秋には光になって 冬はダイヤのように 千の風になって

日常は徐々にコロナ前に戻っているのだろうか。

商談も季節性を取り戻し、クリスマス前に忙しい。アメリカ・メキシコと朝7時に。ドイツとは夜8時前に。今週のWEB会議商談はそれぞれ不規則な時間帯だった。

日本の客とは、そろそろと様子を見ながら忘年会を遠慮がちに提案。同僚や仕事関係者の異動歓送会も「有志」で行われるようになってきた。

先月はイギリスのビジネスパートナーが来日し2年ぶりに対面。仕事がご縁で、仕事絡みから解放された今でも一年に一度お会いする知人とも無事懇親会を実現。近況を報告しあった。

しかし日常がコロナ前に戻ることはないだろう。罹患した人も、結果的にはしなかった人も、経験したことがなくなることはない。せめてこの経験から、次の災害の予測精度を高くしたり、政治や個人レベルでの対策実行を迅速化したり、より円滑に情報共有したり、次に活かせる知恵を身につけたいもの。


私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

「千の風になって」 新井満 訳詞・作曲

歌詞も、メロディーも、とても好きな曲だ。
時々父の写真に向かって口ずさむ。
父は秋川雅史さんの歌唱が好きでよく聴いていた。

今日、訳詞・作曲された新井満さんの訃報をお聞きした。ご冥福をお祈りします。

2021年11月28日日曜日

冬の夕べの音楽会

昨日は久しぶりに音楽会に行った。

デュオ・ポッキーズの友人が演奏するので楽しみに伺った。プログラムを拝見すると、ピアノだけではなく、ヴァイオリン、ヴィオラ、ホルンなど楽器も多彩で、曲目も普段聴けない曲もあって好奇心刺激されるもの。もともとは彼女が発起人で、会社の仲間を誘って始めたようで、今や仲間も増えて盛況のようだ。会社はもともと仕事をする場ではあるが、その中に敢えて別の横糸を通して縁が広がるというのはとても素晴らしいことだ。

冬の夕べの音楽会に、少し早くに家をでて、少し遠回りになるがお気に入りの銀杏の木がある道を通った。陽に輝くの黄金色の葉を堪能。


東の邦よりわが庭に移されし

この樹の葉こそは

秘めたる意味を味わわしめて

物識るひとを喜ばす


こは一つの生きたるもの

みずからのうちに分かれしか

二つのものの選び合いて

一つのものと見ゆるにや


西東詩集/ゲーテ/小牧健夫訳

2020年5月10日日曜日

オンライン版 フランス音楽講座 そして 母の日

今日はフランス音楽講座 オンライン版である。

短工期で先生も、オンラインで高音質を目指そうと開発された方も大変だったことでしょう。また、取りまとめをしてくださったDuo Pockeysの友人も早朝から夜遅くまで連絡いただき、最初の一歩がどれほど大変か、傍で見ていても有難かった。

思っていたよりも音質高く、先生の手元が良く見えるのも嬉しい。

面白かったのは、受講生の演奏も録音した動画なので微妙にいつもと異なるように思えた。通常であれば先生に横で聴いていただく、有難くも厳しい緊張感が壁なのではなく、今回は自分の音楽の基準との戦いになるのではないか。時間との戦いではあるが、取り直しが効く中で、どの動画を出すか。

選択肢が自分にあるのである。考えさせられた。

私の場合、結局、最後までどの版でも、幾つか間違いは散見される中で、歌い易い早いテンポで、指は追いついていないが、比較的気持ちよく弾いた版を提出した(と偉そうに書いたが、実は3版しか撮れず、どんぐり背比べ状態)。

演奏家(アマですが)の自分と、プロデューサー(他人にどう映るか、聴こえるか)の二つの耳が、オンライン講座では必要にされた気がした。メディアが異なると、判断基準もこのように変わっていくのか(変わらない部分もあるが)と感じた講座だった(他の選択の余地のある人にとっては・・・)。

これは、ビジネスでも同様に、評価基準の変更を迫る動きかもしれない。対面で会えずに、Web会議やメールでのやりとりだけだと、提案そのもののメリットデメリットがより先鋭的に評価されるようになる。たとえば私の仕事である営業は、客先との日々のコミュニケーションによる対話よりも、金銭面といった客の眼前の興味だけで判断される確率が高くなっていくかもしれない、など。


話し変わって。

今日は母の日。

Mother's love is peace.
It need not be acquired, it need not be deserved.
Erich Fromm

エーリッヒ・フロムは、母の愛は平和である、と。 得る物でも、報酬でもない。

2018年10月8日月曜日

ドビュッシーのおもちゃ箱

青柳いづみこ氏のレクチャーコンサートに妹と一緒に参加。アンドレ・エレの絵を映しながら、ドビュッシーの「おもちゃ箱」をピアノで奏で、時折語りも入る、贅沢なひとときだった。

エンマと二度目の結婚をしてから生まれた子供「シュシュ(愛称」が7-8才mp頃に書かれた、子供の為のバレエ音楽。エンマとの再婚というとどうしても「喜びの島」のイメージがあるので、幸せ一杯なドビュッシーが刷り込まれていたが、この曲を書いた頃は、経済状況の厳しさから家庭もぎくしゃくしていたそうだ。「こんな葛藤があったにもかかわらず、あるいはむしろだからこそ、<<おもちゃ箱>>の音符のひとつひとつに、ドビュッシーの優しさといいしれぬ哀しみが込められている。」~「ドビュッシーのおもちゃ箱」青柳いづみこ氏~


幼い頃、妹と二人、レコードプレイヤーに耳をつけながら音楽を聴いていた頃を思い出した。両親から買ってもらって夢中だった。小学館だったか、絵本、ナレーションつき音楽の入ったレコード、簡単なピアノ楽譜に解説本。これらが入って1セット、毎月もらって1年で揃う。お気に入りで何年も聴いた。白鳥の湖、くるみ割り人形、ピーターと狼、魔法使いの弟子。様々なストーリーと画と音楽。目を瞑って耳を傾けると人形やバレリーナ達が踊るのが浮かぶようだった。音つきの想像力をもらった。

青柳いづみこ氏の演奏の入ったCD付エッセイ、ドビュッシーのおもちゃ箱からいろいろな音やメロディー、ハーモニーが色彩豊かに飛び出してくる。大人が楽しむ為の魔法が詰まっている。

2018年6月16日土曜日

音楽から沈黙へ 「フォーレ 言葉では言い表しえないもの・・・」 ジャンケレヴィッチ

「フォーレの音楽には、ベルグソンを強く感じさせるような傾向が存在する。それは継続した流れ、つまり流動し、経過してゆく魅力のことであり、流麗さともいえるものなのだ」。

「ガブリエル・フォーレとその歌曲(メロティー)」を論じることから本書は始まる。詩と音楽の「結ばれあった特別な瞬間」・・・たとえば「ミニヨン(ゲーテ)」がシューマン、リスト、ヴォルフに霊感を与えたように、ヴェルレーヌのいくつかの詩はほぼ同じ頃にドビュッシーとフォーレの音楽を誘い出している・・・もっとも類似はそこで終わる。ガブリエル・フォーレの唄は<リート>ではない・・・フランスの歌曲は・・・「ただ自由な海と自由な天とあるのみ」・・・あらゆる種類の例をみない音階と洗練された音の集積を試みるのに力を貸しているのである。(第I部より)

冒頭に歌曲をもってきたのは彼の像を解明し易くしていると思った。弾いていると、フォーレはピアノ曲でも、「歌」がその本質だと感じる。どんなに楽譜どおり弾こうとも、その曲に流れる「歌」をかな奏でないと琴線に触れず、CMソングのように流れさって過ぎていく。マルグリット・ロンが記していたように、リズムの統一性が、ややもすれば繰り返しの冗漫さに変じる危険性を孕み、歌うことを難しくする。

「フォーレはたちどころにフォーレその人となった・・・フォーレとラヴェルはいうなれば、第一歩から自分自身であり得たのだが、ドビュッシーは雑多な影響物ととっつきやすい魅力的な提案のあれこれに囲まれて、長いこと自己を模索し、手探りで進んでいた。」(第I部 第1章 1890年以前より)

サン=サーンスからフォーレへ、そしてフォーレからラヴェルへ。それぞれ曲調は全く異なるがこの師弟達は、若いときから自分のスタイルを確固としてもっていたところが奇妙に似ているように思えた。



2018年6月15日金曜日

「回想のフォーレ」 マルグリット・ロン

ピアニストのマルグリット・ロンがフォーレとの思い出を語っている。初めて数年前に読んだ時には、フォーレ伝なのか、音楽論なのか、自伝なのかよくわからず、随分私的な思いいれが入っていると感じ読みにくかった。しかし今回、要素毎に読み分ければ興味深いと思い直した。

フォーレの人物像の一面:
オルガニストとしての経歴の長さ、サンーサーンスとの友情、パリ音楽院の院長として新風を吹き込んだ手腕、ラヴェル、デュカス、シュミットといった教え子達、ロン夫妻との深い交友と別れ(この本だけでは何が原因だったかわからないのだが)、耳が聴こえなくなってからの苦しみが描かれている。活き活きとした場面もあり思わずひきこまれる。たとえばこんな記述。当時の教室の雰囲気が目に浮かぶようだ。誰か映画にしてくれないだろうか?

フォーレは45分遅れて到着すると、煙草をふかし、座ると、すぐに夢想から我に返ってこう言った・・・。「ラヴェル、それでは君の<水の戯れ>を弾いてごらん」。ラヴェルがピアノの前に座り、最後の音を打ち終わると、先生はちょっと考えていて、それから夢想へと戻っていった。少しして、先生は時計を見た。レッスンはそれ以上進むことなく、終了した。」エネスコが賛美と感謝の念をこめて、こう付け加えていることも事実です。「しかしこの日、私たちは大きく進歩した。」 ~フォーレとその人生~ 

フォーレの音楽の優れた点:
3つの統一性による規律が尊重されている・・・それは本物の古典主義からくるとくちょうのひとつ・・・最初に様式(スタイル)、次にリズム、最後に調性 この3つの統一性。

確かに、この3点は優れているのかもしれないが、その統一性或いは執拗さが、工夫しないと退屈な繰り返しに反転してしまう弾く者にとっては両刃の剣だ。

フォーレが大切にしたもの:
フォーレが、気に入って「日に6回」は繰り返していた言葉あります。それは「ニュアンスをこめて。でも動きは変えないで。」こんな言葉もありました。「僕たちにとって、バス声部は重要だ。」バスへの愛着、私はこれをフォーレから学びました。・・・ フォーレは短くて息をのむような「クレッシェンド」や「ディミヌエンド」を好んでいました。それはちょうど、トスカニーニが驚異的なダイナミックスによって最高に大きな効果を引き出すやり方と似ていました。 ~魔法の輪 作品の統一性~

確かに、今弾いている舟唄1番にも、一小節でfからpへ急降下する部分、最後の盛り上がり部分メロティーに対をなす美しいバスなどすぐに思い浮かぶ。若い時の作品から彼の特徴がちりばめられていることが分かる。フォーレが大切にした部分を意識して表現することで「フォーレらしさ」にく一歩近づけることができればと願う。

「回想のフォーレ ピアノ曲をめぐって」 Ai Piano avec Gabriel Faure 音楽の友社

2018年5月6日日曜日

オリエンタルリリー うるわしの白百合

GWは連休という気持ちの余裕と天気の良さから、ほぼ毎年学生時代の友人と会っている。民族衣装のようなスカートを穿いて元気に現れた彼女と旧交を温めた。骨折以来、何となく全て自重する方向に意識が向いてしまいがちだったが、久々に溌剌とした会話に気持ちも開放的に。楽しいひとときだった。

春に会う花百合、夢路よりめさめて、かぎりなき生命(いのち)に、咲きいずる姿よ、うるわしの白百合、ささやきぬむかしを、百合の花、百合の花、ささやきぬ昔を。

彼女がよく学生時代口ずさんでいた歌だ。その頃は我が家では百合を飾ることはなかった。父が可憐な花が好きだったからだろう、大きな花を活けてあった記憶がない。

しかし、数年前に母が近所の方にいただい百合があまりに見事で、それ以来我が家でも時折飾るようになった。百合が咲くときの、力一杯としかいいようのない生命力の眩しさに惹かれて。まさに歌詞のとおり。白百合の花言葉は「純潔」「威厳」。


2018年3月25日日曜日

ドビュッシー没後100年の命日 「ドビュッシーとの散歩」 青柳いづみこ

ドビュッシー奏者第一人者の青柳いづみこ先生の本書は、生誕150年の2012年に出版された。

ドビュッシーは、自らを恃むところが大きかったと言われている・・・自らを「幸福の変質狂」と読んだように、おいしい料理を食べたときのセンセーション、かぐわしい花の香り、耳に心地よい響き、美しい女性たちの髪の感触。浮き立つような五感の歓びも爆発させた・・・文学も美術も彫刻も、全ての芸術が、「音楽の状態に憧れる」という、ウオルター・ペイターの有名な言葉の、その憧れられる音楽をつくりたいという強い願望と、つくることができるという自負。
夢はすべて実現できたいのだろうか。実現できたとしても、理解されたのだろうか。
(「エレジー あとがきにかえて」から)

2018年はドビュッシー没後100年。本日はその命日。昨日「メモリアル・コンサート」を青柳先生が浜離宮朝日ホールで開催。昼公演は「ドビュッシーが見た夢」、夜の公演は「ドビュッシーの墓に」。ロビーには沢山の自筆譜のコピーあり、企画自体も斬新な切り口で楽しみにしていたのだが、骨折で行けずじまい。青柳先生のCDと本ををもって一人追悼の日。

2018年3月24日土曜日

音を楽しむこと 「ピアノ奏法」 井上直幸

趣味でピアノをやっていると言うと「優雅ですね」「高尚ですね」といった反応が返ってくることが多い。ピアノ=クラシック=優雅、高尚 という図式らしい。そういう部分も確かにあるのかもしれないが、自分に関しては殆どの時間がこの表現から程遠い。

ピアノに関わらず音楽はその理論は「数学に通ずる」とも言われ、その歴史(欧米)はよく絵画や文学との連関で語られる芸術な訳だが、自分にとっての肌感覚ではどちらかというとスポーツに近い。「スポ根(性)マンガのよう」と表す人も。少しでも上手に弾けるよう練習し、その「少し」を達成できた時の歓びに捉われまた練習する・・・という繰り返し。

音楽と聞いて何を思うかといえば練習。週末に1-2時間しか練習時間はとれず、気持ちが仕事モードから切り替わるのに段々時間がかかるようになり、音はバリバリ戦闘モードのままで終わってしまうこともしばしば。気持ちが落ち込んでいれば自分の音も好きになれず、指の練習だけで終わってしまうことの方が多いかもしれない。

そんな時は「井上先生」の「ピアノ奏法」を読み返す。ピアノ奏法にかかわる本は世の中に沢山あるが、本書は簡明な言葉で本質をついた指摘や説明をしようという気持ちが伝わる書だ。つい最近まで知らなかった本で偉そうなことは言えないのだが、自分にとってピアノを続けてこられた原動力を思い出させてくれる。

僕がこの本で伝えたいと思っていることは、「自然で、生きた演奏」ができるようになることです・・・否定的な方向へ自分を持っていって、小さな、小さな空間でしか呼吸していない状態ではなく、いろいろなことを覚え、広い可能性の上に立って、豊かな感性で尾根額を表現する喜びを見出せる「自分」。もうひとつは、困難なことにぶつかった時ーー技術面や音楽上のことでーーそれを解決できる力を養うこと。言ってみれば、自分なりの方法、自分なりの手続きで音楽を作っていけるようになる、そのようなことのアドバイスになれば、と思っています。(井上直幸 「ピアノ奏法 音楽を表現する喜び」前書きから)

2018年3月21日水曜日

還ってくるところ ・・・ 「パリ左岸のピアノ工房」 T.E.カーハート

「これはきのう素敵な紳士から買い取ったばかりなんだ」と彼は言いながら、後ろに下がってそのピアノをつくづく眺めた。「スペイン人だが、ソルボンヌで中近東の言語を教えているんだ。彼はこのピアノで非常に古いタンゴをすごく下手に弾いていたんだよ」ちょっと間をおいてから、彼は付け加えた。「しかし、この楽器を心から楽しんでいたんだ」
その後まもなく、リュックがそんなふうに言うとき、それは最高の褒め言葉なのだとわたしは気づいた。ある人がとても個性的で、しかも音楽を演奏するのが好きなら、どんなに褒めても褒めすぎることはないのだった。(「ぴったり収まるもの」から T.E.カーハート/米・アイルランド 作 村松潔訳)

主人公のアメリカ人がカルチェ・ラタンの小さな工房に惹かれて、通いつめ、ついに「自分のピアノにめぐり合う」。ピアノを奏でる喜び、先生に習う楽しみ、様々な楽器に出会い、そして工房の若き職人リュックと会話を交わす歓びが静かに伝わってくる。大人になったからこそ表現できる音楽への憧憬に、心満たされる書。練習に没頭してしまい、時に歌う心を忘れてしまった気がする時、好きな箇所を開いて読む。私にとって、時々戻ってくる大切な場所のような本である。

2018年3月10日土曜日

「ヴァイオリン職人の探求と推理」 ポール・アダム

ライナルディは宙に手を振った(略)「さあ、次は何を弾く?スメタナがいいな。きみはどうだ、ジャンニ?」
「う-ん、自信がないな。ドヴォルジャークはどうだ?」
ライナルディはアリーギ神父を振り向いた。「神父は?」
「わたしもドヴォルジャークがいいな」
「アントニオは?」
グァスタフェステは肩をすくめた。「ドヴォルジャークでいいですよ」
「オーケイ」ライナルディは言った。「じゃあスメタナだ」

気の合う仲間の四重奏。仕事が終わってからかけつけワインを飲みながらどの曲を弾くか決めるのも楽しい。他愛のないかけあいで曲が決まる(決める?)。こんな数行のやりとりだけで彼らの今までの来し方が想像できてしまう、さりげない会話。

ヴァイオリン職人のジャンニが、有名ヴァイオリンの取引を巡り、贋作やディーラー、収集家を向こうにまわし、仲間の死を解明していく。引用したのは彼と彼のカルテット仲間のいつもの夕べのやりとり。犯人を捜していくミステリーもさることながら、その舞台となる数々の有名なヴァイオリンの表現、そしてジャンニの人柄が魅力的な一冊である。(ポール・アダム作/英国 青木悦子訳 創元社 原題 The Rainaldi Quartet)