2021年6月20日日曜日

Adios Nonino

父の日に。

私が好きな曲。アルゼンチンのタンゴ作曲家 ピアソラが作った父Nonino(愛称)のための曲。 

Piazzola plays Adios Nonino

ピアソラ(1921-1992年)は1954年フランスでクラシック音楽を勉強するが、先生からあなた自身の音楽(タンゴ)に励めと言われる。その言葉を彼はどう受け取ったのだろう。クラシック音楽界ではこれ以上学んでも芽が出ないと思ったか、自分のルーツを個性にしようと腹を括ったか。翌年の1955年にはブエノスアイレス八重奏団を結成。しかしタンゴの破壊者と位置付けられ、1955年に居を移しニューヨークへ、1959年にはプエルトルコ巡業に。そのさなか父の死の報を受ける。お金もなくすぐに帰ることもできない。


父からはじめてもらったバンドネオンが彼の音楽のルーツなのだろう。肉親であり、また音楽の師でもあった父が亡くなり、その場に居合わせもできなかった。この曲は一夜にしてかきあげたという。

父の日に。この曲を毎年のように聴いている。

2021年6月19日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第1楽章(1)

オリンピック予定開始日まであと一か月近くとなる今、緊急事態宣言が解かれた。世論は開催のリスクより命の安全を取りたいという声多いように思えるが。ここにきて誰が正式に開始を宣言するでもなく、開催の方向に潮目が動いていることを感じる。

海外の客と、以前は対面(出張)か電話会議だったのが、今やWEB会議が定例化している。ice breakの雑談にオリンピックの話がでることはなく、まだ海外旅行は無理だが国内旅行ができるようになり少し遅い夏休みを楽しみにしているといった欧州客が多い。一方、まだまだ大変なのがインドの客だ。需要をいち早く政府主導で戻しそのままトップランナーである中国の客と話すと、国毎の状態の違いを痛感する。

今日は朝から梅雨らしい天気。以前もっていた雨靴が、骨折以来痛くて履けず、そのままで適当にしていた(要は履きやすい撥水加工のウオーキングシューズでずぶ濡れと乾燥を繰り返していた)。しかし、とうとう思い切ってショート丈の軽量雨靴を買った。シンプルなデザインと材料で安価。でも、お蔭で雨でも歩くのが楽しくなった。水たまりも怖くない!

早速、初めての雨靴でスタスタと。バスにも乗らず30分ほど早歩きでピアノレッスンへ。3楽章の目途がたたないので1楽章の練習まで手が回らなかったが、流石にまずいでしょう。今日は1楽章をみていただく。

先生にはテンポと拍の意識をもっと研ぎ澄ますように、また、ある部分は音価一杯に密度濃い、圧のかかった音を出す必要があることの指摘を受けた。

3楽章は、ある意味速度一定のベルトコンベアーのように、速度はあまり振らさない中での音色やハーモニーによる変化できかせる難しさがあることは前に指摘をうけたとおり。1楽章はベートーヴェンによる速度の指示がかなり多くある。加えてフェルマータ(休み、停止)もあり、芯となる速度を体得しておかないと、演奏者に思いがあっても、聴衆にはずれずれの気持ち悪さが先にたつのだろう。

また、音の軽さはフランス音楽を弾きなれた癖(本当は使い分けられなければいけないのでフランス音楽のせいではなく自分のコントロールの問題)、逆に音量の大きさを意識しすぎて(フォルテ記号)真上から強く打鍵しすぎて、深い音色や圧のかかった緊張感のある音価を実現できなかったりしている。単音ではできるが、テンポの中で実現するのはまだまだ難しい。

でも、ピアノのレッスンは楽しい。気が付かなかったことを気づかせてもらったり、できなかったことが遅々としてでもできたり。仕事や人間関係ではなかなかシンプルに前進は見えないし、期待すべき対象でもないけれど、ピアノは自分が時間と労力を注げば、ある程度の前進はある。音楽の喜びと共にやり甲斐も感じられる。こういうところが音楽「療法」といったような活用の仕方に繋がっているのかもしれない。

2021年6月13日日曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(6) フランス音楽講座

ピアノの先生のレッスンを土曜日に、フランス音楽講座を日曜に受講した。

講座では、スタッカートの解釈が前回の宿題だった。調べるために、児玉新氏の「ベートーヴェン研究」/春秋社とベーレンライター版の楽譜を取り寄せ、にわか勉強をして臨んだ。

結論としては、3楽章冒頭のメロディーのスタッカート(に見える縦線)は「句読点」の意味あいだろうと仮位置づけし、そのあとのスタッカートはそれぞれ文脈?で判断することに。ただ、今までの「スタッカート(短く切る)」を指が覚えており、句読点の弾き方にはすぐには変えられず。そのまま講座に臨んだ。

講座では、解釈は問題なく、しかし音の出し方のご指摘が多かった。速さとペダリング(濁らないように踏みかえる)にかまけて、指のコントロールが疎かになり、音が硬かったり、音価一杯おさえられていなかったり。細かいといえばそうだが、そのまま音色の違いに繋がるのだろう。

スタカートについては、ご指摘いただかなければ調べもしなかった。何故こんなところで縦線(即ち鋭いスタカート?)とは初めて弾いた高校生から思っていたのに、疑問もなくベートーヴェンが書いた(鋭いスタカートと理解)どおりに弾くしかないと判断していた。

窓 あるいは扉、が次々と開き、そしてまだまだ奥に自分の知らない世界があることを見せつけられた講座だった。それは、自分の力が及ばない悔しさではなく、知らないことがいっぱいあるわくわく感。知らないことを責めるのではなく、知らなければ教える、ご自分が知らなければ一緒に発見する楽しみを味わおうと待ち構えていらっしゃる先生の好奇心のお蔭だ。

早朝散歩していた時にであった白い鳥。跳んだり泳いだり、気持ちよさげに縦横無尽に波際を遊んでいた。(何という鳥かな・・・)

2021年6月6日日曜日

1802年 「テンペスト」作曲の年

 ベートーヴェンが32歳の時のだ。

今、「ベートーヴェン」平野昭/新潮文庫 を読み返している。年譜が巻末についているので便利だ。

この1802年という年は、ハイリゲンシュタットに滞在し、後に「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる、二人の弟に宛てた自殺まで思い詰めたことが記されている。平野氏によると1798年頃には親友に難聴の兆候を打ち明けていたという。この、音楽家にとって致命的な打撃ゆえこの地で引きこもっていた時期だ。

音が聞こえなくなるという恐怖と、それを認めざるを得なくなった時、どのような気持ちだったか。自分と比べるのもおこがましいが、ストレス性の突発性難聴になり、医者からは良くなることはなく悪化を防ぐためにストレスレスになるよう努力するしかないと言われた。聞こえにくさもさることながら、音が微妙に上がって聞こえるようになり、今や完全に1度高く聞こえるようになってしまった。私ですら受け容れがたい気持ちだったのに、音楽家にとってどのような思いだったか想像するに難くない。

そんな苦しみや救いを求める心を投影したかのように思えてしまうテンペストだが、一方でその作風には野心的な点がいろいろある。

平野昭氏の本 「ベートーヴェン」音楽之友社 に対し、紀伊国屋が書評を出している。

https://booklog.kinokuniya.co.jp/imaiakira/archives/2012/11/post_79.html

1802年はまだ旧式のピアノを使っており、1803年にエラール社の新しいピアノを入手している。ベートーヴェンは貪欲に新しいピアノを取り入れていて、生涯に10数種類のピアノをもったと言われるが、テンペストを作曲した1802年には古い(膝で押し上げるペダルの)ピアノだったはずなのに、新式のピアノでのペダル(足で踏む)の指示になっているという。一楽章の型破りな冒頭、レスタティーヴォ(話すような独唱、独白)という表現指示を施したり、独創性はかえって増したようにさえ見える。



2021年6月5日土曜日

ベートーベン ソナタ 17番第3楽章(5)

今週はきつかった。

有り難いことに、きつさの半分は引き合いの多さなのでこちらは嬉しい悲鳴である。コロナで引き合いが激減したのも中国、欧州、の順であったが、戻る速さも同じだ。

中国は5月の全人代で投資に安心感がでたのか、購買意欲が旺盛。欧州もワクチンの進行と、今年は夏のバカンスの期待で、例年の夏休み前6月頃迄商談というシーズン性が復活している予感がする。

と言う訳で全然練習もできていないし、折角取り寄せた児島新氏の「ベートーヴェン研究」もまだ読めないうちに、ピアノレッスン日。

今回は初めて暗譜で弾いてみる。とりあえず最後まではいった。

暫く考えたあと、先生の講評。たとえが面白い。一楽章と比べて、速度指定もかわらないし、音価は殆ど八分か十六分音符なので変化があまりない。同じ速度で流れていく、似たような長さのベルトコンベアーの流れを、どうやって見せ続けるか。音楽であればどう聴かせられるか。そこには、速度、音価ではない何かがなければいけない、と。色調(調性)の違い、音色(タッチや感情)の違い、を表情としてつけなければとおっしゃっているのだろう。

この曲に自分の心象風景を投影するならば。漣のような心の胸騒ぎが、アルペジオで一瞬うねるが、また心落ち着かせようとする。フレーズで大きくとる部分と、一小節単位で(調性がかわっている)感情が微妙に変わっていく。緊張を強いる繰り返しと、そのあとに何故か長調の明るいトーンが一瞬差し込むのに、またすぐに横殴りの雨のような制御し難い焦燥感。

調性の変化を楽譜を追えば感覚的にわかる位、訓練できていない私は、やはり楽譜を一から追って、音で確かめて、どう弾こうか悩むしかない。

でもこの試行錯誤が音楽の楽しみ、醍醐味なのだろう。

帰ってから母に聴いてもらうと(この曲のリクエストは彼女だし)、「気が乗らない、ねぎのような音」と評されてしまった・・・。ねぎ(最近は母は、中身がスカスカなネギに出会ってがっかりしていた)みたいなベートーヴェン。略してネギベン。

母は鋭い感性の持ち主で、かつ、私の演奏は幼い時から聴いているから、さすがに第一音で、気持ちがこもっているか即分かってしまう。平日のビジネスモードを引きずっていると、簡単割り切り直線モードなのだ。もう一度弾き直し。また弾き直し。三度目で「乗ってきたみたいけれど、粗いわね。」と。お見通しです。乗って弾くとまだまだ練習不足で技術的な粗が目立つので、速度を遅く、慎重に石橋渡っています・・・。


早朝散歩で出会った蝶。翅が白く透き通って綺麗だったので撮ってみた。

蝶白し薄暑の草の道埃 田中田士英