「フォーレの音楽には、ベルグソンを強く感じさせるような傾向が存在する。それは継続した流れ、つまり流動し、経過してゆく魅力のことであり、流麗さともいえるものなのだ」。
「ガブリエル・フォーレとその歌曲(メロティー)」を論じることから本書は始まる。詩と音楽の「結ばれあった特別な瞬間」・・・たとえば「ミニヨン(ゲーテ)」がシューマン、リスト、ヴォルフに霊感を与えたように、ヴェルレーヌのいくつかの詩はほぼ同じ頃にドビュッシーとフォーレの音楽を誘い出している・・・もっとも類似はそこで終わる。ガブリエル・フォーレの唄は<リート>ではない・・・フランスの歌曲は・・・「ただ自由な海と自由な天とあるのみ」・・・あらゆる種類の例をみない音階と洗練された音の集積を試みるのに力を貸しているのである。(第I部より)
冒頭に歌曲をもってきたのは彼の像を解明し易くしていると思った。弾いていると、フォーレはピアノ曲でも、「歌」がその本質だと感じる。どんなに楽譜どおり弾こうとも、その曲に流れる「歌」をかな奏でないと琴線に触れず、CMソングのように流れさって過ぎていく。マルグリット・ロンが記していたように、リズムの統一性が、ややもすれば繰り返しの冗漫さに変じる危険性を孕み、歌うことを難しくする。
「フォーレはたちどころにフォーレその人となった・・・フォーレとラヴェルはいうなれば、第一歩から自分自身であり得たのだが、ドビュッシーは雑多な影響物ととっつきやすい魅力的な提案のあれこれに囲まれて、長いこと自己を模索し、手探りで進んでいた。」(第I部 第1章 1890年以前より)
サン=サーンスからフォーレへ、そしてフォーレからラヴェルへ。それぞれ曲調は全く異なるがこの師弟達は、若いときから自分のスタイルを確固としてもっていたところが奇妙に似ているように思えた。
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