2019年10月27日日曜日

頭で分かっても

週1スクーリングのキャリア・コンサルティングの授業。仕事で使っている人と使っていない人の差はスタートからあったが、更にそこに勉強している人、していない人の違いもでてきている・・・。

今週はまた実技。実技が多いのは有難い、理論の勉強は自分でやれるが、実技は相手や観察者がいないとできない。「関係構築」から「問題把握」にステージが広がるものの、土台がまだできていないので、頭では理解しても、それを実践にすぐ適用できなくて、非常にもどかしい。受講者が皆声をそろえて言うように、社会人として、先輩として、人事として、上司として、できるだけ短期間に立ち上がってもらえるよう、どうやってわかり易く、目的のスキルや課題解決能力を得られるよう手助けするか。それを云十年やってきて、「カウンセリングは相手に話させる、考えさせるため」質問形をしない、話をきく、といわれても・・・。話が堂々巡りして焦ってしまうだけ・・・と。理論を勉強して、自分がどのプロセスにいることがわかっても、それでもなお。

講師も同級生も議論を戦わせる。年齢も性別も違うのだが、はじめ意識していただろうに、今は 何故? どうして? 何が?と(学費のもとを取るためにも)必死に理解度を高めようとする。散々な感じの自分も含め、必死な人達とぶつかりあうのは、結構楽しい。なりふり構わず、答えを求める。納得感を求める。それが学問なのだと思う。


平日必死に働き、また週末も必死に勉強したつもり。疲れた脳にふと金木犀が甘やかな香りを漂わせる。

夜霧とも木犀の香の行方とも

中村汀女

2019年10月22日火曜日

薔薇の子供たち

今日は即位の礼正殿の儀で祝日。

写真は皇居近くの三菱一号館の庭にて。父が好きな場所で、今でも時々漫ろ歩く。薔薇の蕾が初々しく思わずシャッターをきる。花の子供時代である蕾は、時に「未来への希望」と重ね合わせて喩えられる。明日へ希望が持てる世の中であることを願って。


同じ薔薇の蕾といっても、イギリスの詩には少し辛口の詩がある。

Gather ye rosebuds while ye may,
Old time is still a-flying;

薔薇の蕾は集められるときに集めなさい
時は過ぎ去るものだから

Robert Herrick


2019年10月20日日曜日

理論の勉強

週末のスクーリングはキャリア・カウンセリングの理論の勉強。

米国で20世紀に発達した理論を駆け足に初期の頃のそれを勉強。一日で半世紀分勉強したので、誰がどの理論だったかはにわかには暗記し難いが、それらが産業革命、一次・二次大戦と時代の要請に応えて、仕事の需給の両方のニーズから発達してきたことがよくわかる。本質的なところは今も十分通じるし、科学的にある程度実験を通じて検証され理論としての役割を担っているが、それが20世紀の米国社会のニーズが起点になっていることが、現在の日本人にはピンとこない点だったりする。それもまた、昔異文化間コミュニケーション論を勉強した身としては、面白い。

前回の実技のコースはその晩、或いは数日間、いろいろ考えさせられて、目が冴えて眠れないことがあった。これは仕事で悩んでいる時などの「眠れない」ではなく、刺激を受けて興奮しているといった感覚なので不快ではないのだが、それでも寝不足という結果は変わらず少し困った。今回、前回授業の振り返り時に、同様に「どのように心を収めたらよいのかと思った」という感想を話してくれたクラスメートが居て共感した。今週のクラスの理論は興味深かったが、自身の心に衝撃を与えるものではなく、お陰で眠れそうだ、、、


母の庭には、妹がもってきてくれた、紫、ワイン、白のトリコロールの竜胆。

あしもとのりんだう一つ二つひらく 山頭火

2019年10月19日土曜日

青柳いづみこ氏 フォルテピアノ らららクラシック ハノン

続けて音楽の話し。最近で印象に残っている音楽のプログラムを。


まずは青柳いづみこ氏の「フォルテピアノ 脱力と音色」
(写真は同氏のオフィシャルHPより借用)
汐留ベヒシュタインにて。
フォルテピアノで弾くとこういう音なのか!と論より証拠、百聞は一見にしかず。
曲はその楽器の為につくられたのだと納得させられたコンサートだった。
私が弾いたことがあるラモーも、こんなに繊細な音で弾くことができるんだ!と当たり前にして自分一人痛い発見。
https://ondine-i.net/concerts/4632

らららクラシック 嫌いじゃないぜハノン。
嫌いだったハノンをこんなに楽しんで、愛でて弾く人がいるとは。
開眼である。
リズム練習や調整を変えて弾く練習は子供の頃に練習したが。いろいろ本当に楽しげに工夫して弾かれるのを見て、こちらもその気にさせられ、早速番組終了後に、強弱いれたり、速度を変えたり、ずらして弾いてみたり、今迄しなかった遊びを仕掛けてみた。怖くて近寄らなかったおじさんがふっと笑いかけてくれたような、子供の頃解けなかった難問がすっと解けたような、わだかまりがいつの間にかなくなった気持ちの軽やかさが後に残った。
http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2019-09-20&ch=31&eid=29463&f=2285

音楽交差点 民族楽器
今日放送(再放送)。インド打楽器 タブラ、日本 胡弓、スウエーデン ニッケルハルパ、ベトナム トルル、ケルト アイリッシュフルート。
聞きなれない音色、音階の楽器もあるが、自分のものにされている方が弾くと、耳慣れない楽器なのに魂が一瞬で惹き込まれる。邂逅の機会を提供する、といえる番組。
https://www.tv-tokyo.co.jp/broad_bstvtokyo/program/detail/201910/23729_201910190800.html

音楽はいいなあ。

2019年10月18日金曜日

プーランク

1899-1963年。第一次、第二次世界大戦、戦後の冷戦時代も経験した世代だ。裕福な製薬会社創設者の父をもち、「フランス6人組」の一人。実業家の父の反対でパリ音楽院に進学しないにもかかわらずだ。ピアノ曲、管弦楽、室内楽、宗教曲、バレエ曲と曲風も幅広い。伝記など読んでいないの詳細はまだ分からないものの、ここまでの印象では、恵まれた環境を悪びれず、物怖じせずに自分と自分の才能の為に活かし、開花させた人のように思え興味深い。どうしても天才作曲家は夭逝、貧困、毀誉褒貶、時代から理解されずに死後に評価、等苦労物語が美談として語られることが多い中、等身大の人物として身近に感じる。

レパートリーの広さといえば、この人はオペラも作曲しており、「ティレジアスの乳房」「カルメル派修道女の対話」など。オペラを書きたくて長く構想を温めながらついに描ききらなかったドビュッシーの話をしっているだけに、つい比較してみてしまう。何事もそつなく何でもできてしまう人のように思えてしまう。これだけ予見をかきたてておいて、やはり伝記を何冊か読んでみよう。

9月に体調を壊していた際、友人からお見舞いをいただいた。学生時代の懐かしいトラピスト修道院のワッフルクッキーや、北海道十勝カルメル会修道院のチョコレート(写真)。この絵は、私の中の心象風景のひとつにとても近い。最近、プーランクの楽譜の近くに置いて、練習しながら時々眺めている。プーランクは今は即興曲11番と13番を練習中。コケティッシュだったり、感情的になったり、祈りの一瞬が表れたり。


体調も復活し、漸く三度目の正直でその友人と楽しい飲み会。山形料理のお店で、話して、話して、話して、そして美味しい日本酒と肴で乾杯。

2019年10月14日月曜日

台風一過

台風一過。先月の千葉の被害も生々しいままに、また数十年に一度といわれた19号が東日本を直撃、大きな被害をもたらした。被害に遭われた皆さまには、お見舞い申し上げます。

私自身も親戚も巻き込まれたが私達は幸いにも無事だった。同僚や会社の工場の状態を確かめ、客対応などに追われた週末だった。

そういう時期に、カナダに住む叔母・従妹達が来日していた。結果的には難なく過せたが、かなり驚いていた。カナダは私自身も留学したことがあるが、人の少ない大きな国だ。それがこの、人の多い小さな国 日本で、いきなり数十年に一度と言われる台風に遭った。驚き、未経験の怖さを感じたことだろう。彼らは今日、カナダの感謝祭の日に帰って行った(カナダはアメリカと異なり10月第2月曜日)。

私にとっては、そういう週末ながら、昨晩友人に久しぶりに会えたことが休みらしいといえば休みらしいイベント。DUO POCKYs の彼女とは、夏のコンクール以降会えておらず、彼女の夏のウィーンでのピアノ講習や帰国後の長崎等での大学院の研修の話を聞き、いつものことながら、触発された。ドイツ土産にいただいたプレッツエルの形をした、グローブやシナモンのミニリース。写真では届けられないが、はっきりとハーブの香り高い。気持ちが和らぐ。こんな小さな工芸品にも、自然の豊かさを感じた。



自然の恐ろしさと豊穣。私達の対し方が大きく影響しているのだろうが。あまりにも激しく異なる側面をみてしまった週末だった。

2019年10月7日月曜日

寄り添う

週末だというのに、こんなに貸会議室が満杯とは思わなかった。自分が知っている世界がいかに狭いか思い知った。

キャリア・コンサルタントの講習を受けに週末貸し会議室に行くと、IT系、財務系、人事系、あらゆる講習会が開催されていて、フロア全室満員。老若男女が学んでいた。今迄土日も結局働かざるを得ない身には、こういう人達も居るんだ!と羨むと同時に開眼した気が。

通っている講習会は理論も実技の勉強もあるが、実技がかなり痛い。「面談は関係構築から」と言われると、当たり前ではないかと思う訳だが、実際自分がやってみろと言われると180度変わる。

日々仕事で「効率良く仕事を進める」ことを是として云十年、それこそ日々努力してきたのだからそういう効率最大限人間になっている。ケースを見せられれば、短時間で(営業だから、数分で)まず問題の想定、課題設定、解決策3策、Max(望ましい)、正攻法(落としどころ)、Min(リスク対策)を考えて提言できるように武装する。あたりをつけたところで、その根拠・数字を探して、次数時間でまずプレゼンできる状態に。万一数日与えられれば更に深堀りする。それが日常。

しかし、カウンセリング/コンサルティングでは、そういう道筋を思い描いたとしても、まずは相手に寄り添って、相手の話したいことを聴く準備をする。

これが、言葉にすると当たり前なのだが、難しい。問題解決を急ぐあまり選択肢を示してしまったり、解決したいと思うあまり質問しすぎたり。沈黙が怖くてとにかく口を開いて横道にそれるような話にもっていってしまったり。

「相手のことを思って」という大義名分で結構自分の意見、評価押し付けているのだとわかったことは、受講生一様に自己反省。だが次は上手く行くかと思いきや、慮りすぎて言葉が出なくなる場面も。

コミュニケーションは、幼子が歩き始めるように、何度も試行錯誤しなければいけないものかも。そう、立って歩きたいと思い続けていたらできるものかも。

「自分が聞きたいことを聴くのではなく、相手がどう思っているか、何を話したいか、寄り添って考えてみては?」

社会人になって、いつも戦って生き残ることしか頭になく、「寄り添う」という言葉を聞いて胸を衝かれた。(一体どういう会社生活だ?と思う方も中にはいらっしゃるかもしれませんが?それが会社生活?なのです)



2019年10月4日金曜日

いろいろな引き出し

学生時代、「人によって引き出しを変えて見せなければいけない時がくるよ」と言われた。その場の文脈としては、率直な発言を是としてた自分に対し、好意と心配をもって言われたと思う。今になれば、有難い言葉だと分かるが、その時は当たり前のことを改めて言われた意味がよくわかっていなかった。要は、単純な率直さそのものが悪いわけではないが、社会にでたらいつも真っ正直にぶつかっていられないぞ、相対する人に会う対仕方を身につけろというアドヴァイスだったのだろう。

この言葉は心に残り、時々ふと自分に問うている。果たして自分は引き出しを増やせただろうか。

引き出し。その人が使った「いろいろな人への対し方(例えば話題の振り方)」という意味もあるだろうし、「知見」「知恵」「工夫」として使われることも、個人の多面性(話題の豊富さ)ということにも使われる。

前回のキャリア・コンサルティングの講座の中で「人生の役割」として、働く、学ぶ、楽しむ、家族、市民、その他 という分類で、現在の自分と3-5年後の自分を点数化してみる、という時間があった。自分の優先順位づけを知る、そして理想とする自分を想像してみる、人生のステージによってその優先順位も変化することに気づく為の検討。私自身の図を見てみると、現在仕事9、家族1、それ以外はほぼ0といったいびつな姿だった。バランスよくすることが目的ではなく、自分が良いと思う方向を考え、どうしたら実現できるかと考える基礎資料なのだが、それにしても私の目の前に描かれた図はあまりにもバランスが悪すぎる。これでは引き出し(多面性)は増えてないな、、、と納得。

個人の次なる(3-5年)での目標は、学ぶ、楽しむ時間を増やし、地域で何かボランティアするとっかかりをつけるというもの。

人のカウンセリングするより、自分のことを知って唖然・呆然とする、というキャリア・コンサルティングの講座となりそう。


本日の、母の空中庭園のワンカット。父の好きなトルコ桔梗。やわやわとした優しさと、華やかな色合いがお気に入り。