リビングに学生時代のみたラファエル前派の展覧会の中で一番好きだったた英画家レスリーが描く「Sun and Moon Flowers」(画像は「オールポスターズ」HPより借用)を飾っている。生花の生命力も、この絵の静謐さもいづれも向日葵の魅力だ。
1890年に描かれた作品。時期としては、丁度今年弾いたフォーレの舟唄1番(1881年)と来年弾きたいと考えているラヴェルの水の戯れ(1901年)の丁度間に描かれたとも言える。
ここ数年間、ドビュッシーの「水の反映」と共にいつか弾きたい曲リストの筆頭を飾ってきた。好きな曲という動機ではなく、フランス音楽の代表作のひとつにチャレンジしようというもの。昨年今年と「水の反映」を弾いたので、次は、という訳だが、難しさに加えてラヴェルの曲を殆ど弾いたことがないという引け目が二の足を踏んでいる理由。
難易度が高い、精密に楽譜で弾き方を指定するので窮屈、といったイメージが強く、自分には縁遠い人、と思っていた。初めて彼の曲を弾いたのは2-3年前に友人と「マ・メール・ロワ」を連弾した時。譜読みは楽だった。しかし美しく弾くのは思ったよりも難しかった。間やニュアンスを上手く表せないとと薄っぺらに聞こえ、やりすぎると厭らしく響く。シンプルで美しいメロディーは、不思議と頭の中でリフレインする。名曲のもつ曲の力、なのだろう。
曲を知る前に、ラヴェルその人にお近づきになろうか。
スイス人で実業家の父と、バスク人の母との間に1875年生まれる。父の影響で6歳でピアノ、12歳で作曲を学び、パリ音楽院に在籍。ここまでみると順風満帆なエリートと見えるが、1900年から5年にわたりローマ大賞に応募するもついに大賞を得られなかったという意外な過去が。1898年に国民音楽協会で作曲家デビューを果たすが1909年には同協会と決別し、新しい音楽の創造を目指し独立音楽協会を旗揚げ。時代は第一次世界大戦となり、ラヴェルはパイロット志願するが果たせずトラック輸送兵として従軍。この大戦中の1917年に母が世を去り、この後創作意欲は減衰したように見え、この後、作曲家としてよりも演奏家としての活動が公的には増えていく。特に1928年に初渡米でのコンサートは成功し、ラヴェル自身も米国の新しい音楽に刺激を受けたと言う。一方、水面下で病気が進行しており、1927年から記憶障害や言語症に悩まされ、1932年のパリでの交通事故で加速する。最後弟や友人の勧めで外科医の手術を受けるが治らず、1937年に62歳で逝去。
「水の戯れ」は冒頭記したとおり1901年、彼が26歳の時の作品。パリ音楽院で作曲を師事していたフォーレに捧げられた。
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