プーランクとピアフの接点は直接にはないという。それもそうだろう、製薬会社を営む富裕層の生まれでクラシック音楽の作曲家であるプーランクと、ピアフ。音楽、がなかったら直接どころか、間接的な接点もなかったろう。
ピアフ(パリジャンの俗語で「雀」/Wikipedia)のニックネームで知られる彼女は、身長147cmの小柄で、ドイツ軍に処刑された看護婦イーディス(Edith)に因んで名づけられた少女。母はイタリア系のシンガー、父はアルジェリア系の大道芸人。働く若い二人の変わりに世話をしたのは父方で売春宿を営む祖母。独り立ちしたのは16歳で、そのときには恋人の子供を身ごもるが、子供は二歳で小児性髄膜炎で逝去。
プーランクの「エディット・ピアフを讃えて」の即興曲は1932年に作曲されている。ピアフがナイトクラブのオーナーに見出されて歌うようになるのは1935年だから、その前のどこか酒場かどこか流していたピアフの唄をきいたのだろうか。
1932年に作曲されたこの曲、この年はナチス党がドイツで大勝した年だという。プーランクは、即興的に弾いたこの曲、どこまでピアフを意識し、その意識は彼女の何から想起したのだろう・・・。
ピアフの大恋愛はプロボクサーのセルダンとのものだが、セルダンは1949年に飛行機事故死。彼女が「早く会いたい」と言ったことで当初予定の船から飛行機に切り替えて、そして事故に遭った。
プーランクのこの曲が作曲されたのは1932年だったが、なんだかその後のピアフの苦しみを予見しているように思えてしまう。
この曲の「枯葉」の冒頭のイメージ、中間の一瞬の幸せな長調のフレーズ、最後に短調から宗教音楽の赦しのようなフレーズのあとに絡みつく不安定な左手の音の流れと、不意に聞こえる短調の和音。
但し。それを踏まえたうえで、ピアフが、プーランクが、この曲を「悲愴」「演歌のこぶし」で弾いて欲しかったかは別だと思う。二人とも、ふっと息を吐きながら斜めを見て、自分の素の感情を別の表現に置き換えたような気がする。
実際のピアフを聴く機会はなかった。
想像の中の彼女は、スカーレット。だが、多分、人によっていろいろな思いを持って欲しかったのだろう。
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